この世界の片隅に(2)作品のテーマ

こんにちは。

今回は、『この世界の片隅に』の(2)を書きたい。

(1)の投稿からずいぶん間が空いたことを反省している。

2019年末から2020年史にかけて、いろいろ他のことにかまけていたり、映画を見に行ったりしていたら、いつのまにか2か月以上経過していた。

 

すでに『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開しており、自分も何度か劇場に足を運んで、片淵監督の話を聞きに行ったりもした。

映画を見るまでは、作品を評価するあまりにこんな自分が言えることなどあるのかと気後れしていた。しかし、映画を見て、あらためて記事を書きたいという思いをもちなおし、こうして筆を執ることにした。

 

この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)

 

 

さて、今回は、『この世界の片隅に』という物語を読み解くにあたって、まず考えたいことがある。

それは、この作品のテーマだ。

これについては、誰しもいくつか思い当たるものがあると思う。

自分が思うところを挙げてみたい。

 

1.戦争(空襲、広島と原爆)

2.生活(日常の描写)

3.女性(男女の仲、時代)

4.笑い(ありゃー&トホホ)

 

パっと思いつくのはこのようなところか。

もちろん、「現代」の時代背景はかかるすべての作品に影響を与えるに違いなく、作者の様々な思いがこの作品に込められていたということはあるだろうが、想像の域を出ないことはここでは大きく触れず、あってもインタビューなどをもとに推察することとしたい。

 

戦争モノという見方

本作をに触れた誰もが感じるのが、この「戦争」というテーマだ。

特によく言及されがち(あえてこう書く)なのが、

反戦

・戦争の悲惨さ

・戦争の惨禍

・原爆の恐怖

といったことだ。

つまり、「第二次世界大戦や太平洋戦争が日本にすんでいた一般人に対してどういう被害をもたらしたか」について書いた作品であるという見方だ。

 

日本では長い間、特に夏の終戦記念日の近くになるとよくこうした「戦争の悲惨さ」をテーマに原爆や空襲の被害にあって苦しむ人々を主人公にした映画やドラマがよくテレビで放送されたりした。

この手の話はいわゆる「戦争モノ」としてカテゴライズされた。本作もこの「戦争モノ」の一つだと受け取られたという話である。

日本で作られた「戦争モノ」は、当然その手の話は主人公が死ぬ、ヒロインが死ぬ、家族が死ぬといった暗い話、暗い終わり方となるものがほとんどだった。観れば観るほど我々自身が暗くなってしまい、もうたくさんだという気分になってしまうものだったのである。

こうしたものを見て「戦争とは」について考えるのが大事ではないとは言わないが、これは、登場人物に感情移入するより先に恐怖や陰鬱さを感じてしまい、人間が本能的にこの問題についてむしろ考えたくないと感じるような構造を生んでいて、閉塞感がすごかった。自分も学校に通っていたときはよく現場行き詰まりというか、結局何を伝えなければならないのかを整理できている大人が少ないと感じたものだ。

 

高畑勲監督の『火垂るの墓』に対する評価を見てもわかる。

火垂るの墓』は上記の戦争モノの代表として引き合いに出されてしまうが、このことが、見ている人がいかにイメージでとらえていて、作品のテーマを掘り下げようとか、伝えたいことは何なのかを考えようとしていないのかの証拠だ。

監督自身が言っているように、『火垂るの』のテーマは戦争の悲惨さではない。主に戦争後の話だし、結局あの話で重要なのは人間の心が抱えている問題なのだ。戦争は題材ではあっても、伝えたい焦点ではない。それを超真面目に考えている高畑監督からすると一番見てほしいのはその悲惨さとかいうことではなく、そうした環境に生まれる人間の醜い心の闇の数々であると思う。

 

話がそれてしまったが、『この世界の片隅に』は、原作者のこうの史代先生がこういったいわゆる「戦争モノ」をメチャクチャ意識して描いた作品なのだ。ゆえに、本作を見るとき、「戦争モノ」にカテゴライズして見てしまうことは是非にも避けてほしい

 

本作はどうやって生まれたか

「戦争モノ」を意識して描いたことは、先生自身が『平凡倶楽部』の中で述べる通りである。気になった人はぜひ読んでほしいのだが、このエッセイ集の中に、『戦争を描くという事』という文章があり、ここにこうの先生の詰まる思いが記されているのである。

(例えば、「ところで私は戦争ものが大嫌いだ。」という書き出しで始まったりする!!)

この文章から本作がどのような思い出作られたのかをざっくり書けば、

・原爆ものと戦争ものは違う。特に周囲の望む「受容の場」が。

・戦争ものはつじつまが合わないし、不自由である。だから嫌いだ。

・それでも戦時の導く結論が戦争ものの結論に重なるのであれば、そこに真理が隠されている筈である。

・戦争ものの不自由さから離れて、先人の人生に沿い、語られない何かを探ることで、我々に理解できなかった部分を補えるかもしれない。

・戦争における英雄の死ではなく、戦時の人の生に沿い、どう生きていたかを描く。

・昔の女、玉音放送での涙など、自分が昔から疑問に感じていたことを取り上げる。

・戦時中人々が抱いていた「夢」について描く。

・暮れの戦災には広島の原爆が心理的に重要に関わっていた。

・私たちは戦後に生まれたからといって戦争を知らない世代では決してない。

・戦争を体験した人たちがずっと亡くした人を想って泣いてばかり、国に対して怒ってばかりの人生を送ったわけではない。いろいろな記憶を語り、同時に秘めながら私たちに接してくれた、ということは私たちにしか伝えることのできない現実である。

というような内容になる。

 

実際のテーマ

こうして生まれた本作は、もちろん、戦争の描写はあり、戦争は主人公すずの人生に深く関わっているのは間違いない。ないが、時代背景という題材の一つであって主たるテーマではないと感じる。

完成した原作から感じることとして、テーマとして重要と思えるのは残りの2、3、4の方なのだ。

これは戦争がこの物語の中心ではないからだ。

中心は「人」であり、彼らの「人生」であり、人生の中の「日常」である。

つまり、この物語は、人々に対する空襲や原爆や玉音放送を描いているのではなく、空襲や原爆や玉音放送に対する人々の反応を描いていると感じるということだ。

この物語は、「人々の日常」が中心にあり、「日常」には「時代背景」が色濃く出る。「この時代の生活」には必然的に「戦争」の影響が色濃く出た、という構築の仕方である。

だから、日常というものを一つ一つの出来事の連なりとして扱っている。戦時下の日常生活はこうだったとひとくくりになっているものを解きほぐして、自分の今の生活と比較する。それにより、「戦時下と一言でいうけど、普段のああいうときやこういうときはどうしていたのだろう」と思いめぐらせ、資料を調査し、だんだんと見えてきた細かい像を映しているのだ。

 

テーマと構成の連動

そして、このテーマに沿うように、マンガの構成も練られていると感じる。

本作の連載の特性上ゆえともいえるのだが、非常に特徴的なこととして、作品内の時間の流れ方がある。本作には多くの物語に見られる手法が存在しない。

それは、

回想がない

・同時間帯を別の視点で映すことが(ほとんど)ない

ということだ。

つまり、回想シーンで時間が巻き戻るとか、誰かのシーンの後に同じ頃別の誰かはこんなことをしていましたというシーンがほとんどないのである。

空襲で晴美ちゃんが亡くなった時にすずさんが当時の状況を思い出すシーンや、広島で拾った戦災孤児の出自を映すシーン、リンの出自を映すシーンはあるが、それでも時計が全然止まってないというか、基本的に流れっぱなしなのである。

 

本作の連載は昭和19年~20年の中での時間の流れ方と全く同じスピードで連載するという方法をとっていた。原作でも映画でも19年の〇月、20年の〇月と書いてあるのは、実際にその日に起きたことや天気を調べて描かれているためだ。可能な限りの際現にこだわって書かれた本作は、この手法で「時間の流れ」も再現しようという試みがあったのだろうと思う。時間の流れは不可逆ゆえに、物語も基本的に不可逆で、時間を戻すことができないのである。

ただ、こうしてあえて時間的制約を設けて連載たことで、この物語は人の人生に化けたともいえるのだ。なぜなら、人生の時間は決して戻ったりしないからだ。

 

私はこの作品のテーマと構成の連動を感じて衝撃を受けたのである。

 

まとめ

 本作の生まれた背景から、是非、従来の「戦争モノ」とひとくくりにせず、先入観のない状態で見るとことで、本作の本当の魅力に気づくことができるだろう。

この作品に感じる衝撃の一つとして、構成との連動があり、この物語は「人の人生」のもつ時間の流れを再現したものであると考えられる。

 

残りの2(=生活)、3(=女性)、4(=笑い)について十分に書くことができなかった。残りは次の(3)以降とさせていただきたい。

また、「さらにいくつもの片隅に」の感想も別途書いていきたい。

 

 本稿は以上になります。

本稿を読んでくださった方、本当にありがとうございました。

次回に続く!