辺獄のシュヴェスタ ~忘れたくない「集団における自己実現」~
こんにちは。
今回はあるマンガの感想を書きたいと思います。
タイトルは『辺獄のシュヴェスタ』(竹良実、2015~2017、全6巻)
※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は十分ご留意の上でご覧下さい。
※この文章におけるキリスト教の知識は非常にざっくりしたものなので、詳しく知りたい方は信用のおける資料に基づいて詳細に調べることをお勧めします。また、もしキリスト教に関する表現で信者の方に不快な思いをさせてしまったら申し訳ありません。
この作品、初めて読んでからずっと思っていたのだが、間違いなく人生の中で忘れたくない作品の一つである。それくらい読み手に対して語りかけてくるものがあり、とても印象深かった。
全6巻と決して長くない話なので、読みやすく、本当におススメである。
タイトルについて
最初に、あまり聞きなれない言葉の組み合わせであるタイトルの意味を明確にしておきたい。本作は中世ヨーロッパにおけるキリスト教を題材にした作品であり、「辺獄」も「シュヴェスタ」もキリスト教にちなんでいる。
まず、「辺獄」とは、カトリック教会において「原罪のうちに(すなわち洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた場所のこと(Wikipedia)。
普段キリスト教に触れる機会のない日本人にとってまったくピンと来ない説明なのでもう少し詳しく解いてみる。
キリスト教では、生まれた時から持っている人間の罪(=原罪)という考え方がある。これは祖先であるアダムとイブが犯した罪が、生まれた時はすべての人間にあるというものだ。そして人間はこの原罪を、キリスト教に入信して「洗礼」を受けることで償うことができるのだ。
つまり、洗礼を受けることができないまま死んでしまったけれど、それ以上の罪を犯してはおらず、地獄行きが決定してない人間の行く場所が「辺獄」である。
物語の中でこの言葉が持つ意味はもちろんあるが、それについても後述したい。
次に、「シュヴェスタ」であるが、これはドイツ語の schwester で「姉妹」とか「修道女」の意味。英語で修道女を「シスター」と言うのと同じだ。作品の中では「お姉様」という言葉に対してのルビや修道女全般の肩書として使われている。
つまりこのタイトルは「辺獄の修道女」という意味である。
作品のテーマ
「集団における自己実現」こそ、本作のもっとも重要なテーマと思う。
何を急に堅いことを言いだすんだと思うかもしれないが、まあ聞いてほしい。
本作は17世紀のドイツが舞台のキリスト教を題材にした物語だ。
主人公は魔女狩りによって母を失い、クラウストルム修道院という辺境の修道院に送られる。クラウストルム修道院は魔女の子の更生施設であり、カリスマ的総長の指導の下、魔女の子たちを洗脳教育し、修道院に忠誠を誓う人間に育てていた。そしてカトリックとプロテスタントに分かれて争うキリスト教の世界を革新するという目的を果たすため、魔女の子たちを手駒として使ってゆくのだった。
主人公の少女エラ・コルヴィッツとその仲間たちは、修道院の洗脳に屈せず、修道院からの脱出と総長の打倒のための計画を立てる。エラはやがて「神をもたない修道女」へと成長し、ついに総長を打ち倒して物語の幕は下りる。
中世という時代の持つ残酷さを背景に、まだ基本的人権などの近代思想と結びついてないキリスト教のもつ嫌な部分を見せつつも、本作の見どころは主人公の行動と意志にあるといえる。
修道院という狂信的な集団の中では、人間の様々な習性や心理、行動原理が表出する。この時代のキリスト教は異教徒なら何をしてもいいくらいのスタンスでやってくるので、生まれた時から一定の権利を有している現代人にとって、宗教に自分の権利を制限される状態というのは実に刺さる。
現代人にとって当たり前のこと(例えば自由に生きるとか信じたいものを信仰するとか、やりたい仕事をやるといったこと)が一切通じないくらい、教会というものが強者として存在しており、自分の意志や良心が平気で踏みにじられる。
よくよく考えれば、神様がどうのこうのという連中が堂々と民衆の前で人に命令したり、刑を執行したりするのはどういう根拠があってのことなんだと感じてしまうが、17世紀という時代にはこれを否定するだけのパワーを持った思考の拠り所が宗教以外にないのだ。
後に覇権をとる「科学」はまだ赤ん坊のような存在で、世の中の理屈を決めるほどの力がなく、印刷技術が未発達なことや、学校教育の一般化がされていないことから、知識層も非常に少なかった。
こうした時代背景の中で、神に頼ることができない状況こそが、この物語の設定である。当然、どうするべきか?という問いが投げかけられている。
我々はかつてないほどの反骨心を主人公エラに見出すことができるだろう。神や教義を利用して自分たちにとって都合のいいことを実現しようとする修道院に対し、自分の尊厳を失わないために、自らの目的を達成するために、犠牲となった者達の想いに報いるために、エラとその仲間たちがあの日あの場所でどう行動したのか、これが最も作者の見せたいところではないかと感じた。
エラの修道院の洗脳に屈しない強い心は、院内の少女たちが構成する集団の中で現れる。人間は集団心理をもつ生き物であり、これは今も昔も変わらない。例えば自分の意志とは異なる決定にも集団の中でついつい従ってしまったり、集団に嫌われないようにやりたくもないことを実行したりする。誰しも集団なしでは生きられないが、同時に集団の中で嫌な思いをしたことがあるのではないだろうか。
宗教も集団と同じである。もっとも厳しい時代である中世において、宗教の果たした役割は大きいが、同時に多くの分断を生み、多くの人に悲しみ与えるものでもあった。
本作を読むと、こういった「集団」においていかにして自分の意志を貫く(=自己実現する)かということを考えさせられる。これは人間の人生について考える上で、最も重要な問題の一つであり、永遠の課題である。主人公エラはそれを体現するものとして我々読者をひきつけてくれる魅力的な存在だ。
こうした理由から、「集団における自己実現」が本作の最大のテーマのように感じたのである。
宗教は「哲学」と「ファンタジー」の掛け合わせ
すこし脇道にそれるが、備忘のため書いておく。
宗教は、あくまで一個人の見解だが、「哲学」と「ファンタジー」の掛け算によってできたものではないかと思うのだ。
この世に宗教が生まれる前から、人間には哲学があったに違いない。仮に哲学が、人間が人生を全うするための指針であり、何を幸福ととらえ何を不幸ととらえるかを明確にするためのものとすると、別にそこに神様や不思議な力や科学的にありえない奇跡的な現象を持ち込まなくても、成り立つはずである。
しかし、宗教は生まれた。哲学に理屈を与えるためか、様々な土着の信仰(ファンタジー)が吸収され、1つの大きな宗教が誕生した。そして、時の為政者などに支配のため利用され、広く普及した。
余談だが、こういう思想史というべき研究は面白そうだけど、タブーがいっぱいありそうで実際に行うのは実にめんどくさそうだ。よく教科書に「昔の人は自然災害などを精霊の怒りと考えていた」とかいう説明がある。ここは本当は「なんで?」とならなければいけない。どっから来たんだろうか?風の神様とか太陽の神様とかいった概念は。そしてなぜ一人の人間の妄想にとどまらず、みんなの共通認識になっているのか?誰か言い出したヤツがいたに違いないのだ。太陽の神様というのがいるということにして、〇〇という名前で呼ぶことにしようとか言ったヤツが。そうやって自分の妄想を膨らませたまま大人になって、それを人生に必要な宗教と結び付けたヤツが。
キリスト教徒はまるで成り立ちが違うが、仏教などまさにそうで、本来は釈迦がたどりついた哲学的境地(悟り)を知識としてではなく体験的に理解するというのが趣旨だったはずなのに、インド神話と結びついてファンタジックな伝説や仏像がいっぱいできてしまった。まあ、真相はわからないが、自分の利益のためにそうしたヤツらがいるよな…というのが印象である。
自分は無宗教者だということに自覚的な日本人であるため、こういったことを平気で言うが、進行している人のことを悪く言う気はない。その人が信じることで人生豊かになるならそれでいい。ただ、生まれたものには背景(バックグラウンド)があるよという話だ。
辺獄はエラの行った先
エラは物語の中ですごく哲学している。とてもかっこいい。
クラウストルム修道会は独自の規律を持っていて、それは洗脳がうまくいきそうにない奴を片っ端から殺すための規律なのだが、同時に迷いのある人間の理性をぶっ壊して洗脳を強くするためのものでもある。そのため、腕を切ったり、牢獄に閉じ込めるなどの罰や、拷問や、処刑も修道女たちの手で仲間同士でやらせる。できなきゃお前も反逆者理論である。
実際、修道会に身をささげた人たち(ムター(お母様)と呼ばれる修道女たちなど)は、もう、食事に薬を入れて幻覚を見せることや、剣や銃で人を殺すこと、疫病を流行らせて大勢の死者を出すことなどに全然ためらいがなくなってしまっており、狂信者の一団といえる。彼女たちが敬虔な信徒だと言われても、実際やっていることは下の下でしかない。ただ、集団の中でそのことを冷静に俯瞰することがなにより大変なのである。
エラは修道会を生き延びるために上の人間の目を欺く演技を続けた結果、処刑人に指名されるわけだが、ここで当然、殺人や腕切りをやらされることに葛藤を覚える。そこに抵抗を持たなくなったら修道会のヤツらと変わらない。作中では、「向こう側」へと堕ちてしまうと表現されているように、集団のなかで流されずに自己実現をしつつも生き延びて総長を殺すチャンスを得なければならない。どうするか?
この部分は、本作の物語のなかでも本当に考えることが多く、読む価値ありといえる部分だ。
結局、エラは辺獄に行くという覚悟をすることでこの問題に相対した。そこに至るまでの思想を是非多くの人に見てほしい。
まとめ
本作は決して長い話ではないが、上記のような話以外にも、食べ物を得るためのサバイバル的な要素や、様々なヒントから修道院の洗脳の仕掛けを見破っていく推理モノなどの要素が入っており、バランスよくまとまっていて飽きさせない。巻数も少ないので一気に読むことができるだろう。
エラはとても意志の強い少女であり、何があってもあきらめない。人よりはるかに多く考えて、彼女のもつ強気にむしろこちらが引っ張られてしまうくらいだ。彼女のように、根っこのところで屈することなく生きたいと思わずにはいられない。
身体だけでなく意志の力を強くしたいと思う人は是非読んでほしい。
きっと思うはずである、彼女たちのことを忘れたくないと。
おしまい