辺獄のシュヴェスタ ~忘れたくない「集団における自己実現」~

こんにちは。

今回はあるマンガの感想を書きたいと思います。

 

タイトルは『辺獄のシュヴェスタ』(竹良実、2015~2017、全6巻)

※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は十分ご留意の上でご覧下さい。

※この文章におけるキリスト教の知識は非常にざっくりしたものなので、詳しく知りたい方は信用のおける資料に基づいて詳細に調べることをお勧めします。また、もしキリスト教に関する表現で信者の方に不快な思いをさせてしまったら申し訳ありません。

 

辺獄のシュヴェスタ(1) (ビッグコミックス)
 

 

この作品、初めて読んでからずっと思っていたのだが、間違いなく人生の中で忘れたくない作品の一つである。それくらい読み手に対して語りかけてくるものがあり、とても印象深かった。

 

全6巻と決して長くない話なので、読みやすく、本当におススメである。

 

タイトルについて

 最初に、あまり聞きなれない言葉の組み合わせであるタイトルの意味を明確にしておきたい。本作は中世ヨーロッパにおけるキリスト教を題材にした作品であり、「辺獄」も「シュヴェスタ」もキリスト教にちなんでいる。

 まず、「辺獄」とは、カトリック教会において「原罪のうちに(すなわち洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた場所のこと(Wikipedia)。

 普段キリスト教に触れる機会のない日本人にとってまったくピンと来ない説明なのでもう少し詳しく解いてみる。

 キリスト教では、生まれた時から持っている人間の罪(=原罪)という考え方がある。これは祖先であるアダムとイブが犯した罪が、生まれた時はすべての人間にあるというものだ。そして人間はこの原罪を、キリスト教に入信して「洗礼」を受けることで償うことができるのだ。

 つまり、洗礼を受けることができないまま死んでしまったけれど、それ以上の罪を犯してはおらず、地獄行きが決定してない人間の行く場所が「辺獄」である。

物語の中でこの言葉が持つ意味はもちろんあるが、それについても後述したい。

 

 次に、「シュヴェスタ」であるが、これはドイツ語の schwester で「姉妹」とか「修道女」の意味。英語で修道女を「シスター」と言うのと同じだ。作品の中では「お姉様」という言葉に対してのルビや修道女全般の肩書として使われている。

 

つまりこのタイトルは「辺獄の修道女」という意味である。

 

作品のテーマ

「集団における自己実現こそ、本作のもっとも重要なテーマと思う。

何を急に堅いことを言いだすんだと思うかもしれないが、まあ聞いてほしい。

 

本作は17世紀のドイツが舞台のキリスト教を題材にした物語だ。

 

 主人公は魔女狩りによって母を失い、クラウストルム修道院という辺境の修道院に送られる。クラウストルム修道院は魔女の子の更生施設であり、カリスマ的総長の指導の下、魔女の子たちを洗脳教育し、修道院に忠誠を誓う人間に育てていた。そしてカトリックプロテスタントに分かれて争うキリスト教の世界を革新するという目的を果たすため、魔女の子たちを手駒として使ってゆくのだった。

 

 主人公の少女エラ・コルヴィッツとその仲間たちは、修道院の洗脳に屈せず、修道院からの脱出と総長の打倒のための計画を立てる。エラはやがて「神をもたない修道女」へと成長し、ついに総長を打ち倒して物語の幕は下りる。

 

 中世という時代の持つ残酷さを背景に、まだ基本的人権などの近代思想と結びついてないキリスト教のもつ嫌な部分を見せつつも、本作の見どころは主人公の行動と意志にあるといえる。

 

 修道院という狂信的な集団の中では、人間の様々な習性や心理、行動原理が表出する。この時代のキリスト教は異教徒なら何をしてもいいくらいのスタンスでやってくるので、生まれた時から一定の権利を有している現代人にとって、宗教に自分の権利を制限される状態というのは実に刺さる。

 現代人にとって当たり前のこと(例えば自由に生きるとか信じたいものを信仰するとか、やりたい仕事をやるといったこと)が一切通じないくらい、教会というものが強者として存在しており、自分の意志や良心が平気で踏みにじられる。

 よくよく考えれば、神様がどうのこうのという連中が堂々と民衆の前で人に命令したり、刑を執行したりするのはどういう根拠があってのことなんだと感じてしまうが、17世紀という時代にはこれを否定するだけのパワーを持った思考の拠り所が宗教以外にないのだ。

 後に覇権をとる「科学」はまだ赤ん坊のような存在で、世の中の理屈を決めるほどの力がなく、印刷技術が未発達なことや、学校教育の一般化がされていないことから、知識層も非常に少なかった。

 こうした時代背景の中で、神に頼ることができない状況こそが、この物語の設定である。当然、どうするべきか?という問いが投げかけられている。

 我々はかつてないほどの反骨心を主人公エラに見出すことができるだろう。神や教義を利用して自分たちにとって都合のいいことを実現しようとする修道院に対し、自分の尊厳を失わないために、自らの目的を達成するために、犠牲となった者達の想いに報いるために、エラとその仲間たちがあの日あの場所でどう行動したのか、これが最も作者の見せたいところではないかと感じた。

 

 エラの修道院の洗脳に屈しない強い心は、院内の少女たちが構成する集団の中で現れる。人間は集団心理をもつ生き物であり、これは今も昔も変わらない。例えば自分の意志とは異なる決定にも集団の中でついつい従ってしまったり、集団に嫌われないようにやりたくもないことを実行したりする。誰しも集団なしでは生きられないが、同時に集団の中で嫌な思いをしたことがあるのではないだろうか。

 

 宗教も集団と同じである。もっとも厳しい時代である中世において、宗教の果たした役割は大きいが、同時に多くの分断を生み、多くの人に悲しみ与えるものでもあった。

 

 本作を読むと、こういった「集団」においていかにして自分の意志を貫く(=自己実現する)かということを考えさせられる。これは人間の人生について考える上で、最も重要な問題の一つであり、永遠の課題である。主人公エラはそれを体現するものとして我々読者をひきつけてくれる魅力的な存在だ。

 

 こうした理由から、「集団における自己実現」が本作の最大のテーマのように感じたのである。

 

 

宗教は「哲学」と「ファンタジー」の掛け合わせ

 すこし脇道にそれるが、備忘のため書いておく。

 宗教は、あくまで一個人の見解だが、「哲学」と「ファンタジー」の掛け算によってできたものではないかと思うのだ。

 この世に宗教が生まれる前から、人間には哲学があったに違いない。仮に哲学が、人間が人生を全うするための指針であり、何を幸福ととらえ何を不幸ととらえるかを明確にするためのものとすると、別にそこに神様や不思議な力や科学的にありえない奇跡的な現象を持ち込まなくても、成り立つはずである。

 しかし、宗教は生まれた。哲学に理屈を与えるためか、様々な土着の信仰(ファンタジー)が吸収され、1つの大きな宗教が誕生した。そして、時の為政者などに支配のため利用され、広く普及した。

 余談だが、こういう思想史というべき研究は面白そうだけど、タブーがいっぱいありそうで実際に行うのは実にめんどくさそうだ。よく教科書に「昔の人は自然災害などを精霊の怒りと考えていた」とかいう説明がある。ここは本当は「なんで?」とならなければいけない。どっから来たんだろうか?風の神様とか太陽の神様とかいった概念は。そしてなぜ一人の人間の妄想にとどまらず、みんなの共通認識になっているのか?誰か言い出したヤツがいたに違いないのだ。太陽の神様というのがいるということにして、〇〇という名前で呼ぶことにしようとか言ったヤツが。そうやって自分の妄想を膨らませたまま大人になって、それを人生に必要な宗教と結び付けたヤツが。

 キリスト教徒はまるで成り立ちが違うが、仏教などまさにそうで、本来は釈迦がたどりついた哲学的境地(悟り)を知識としてではなく体験的に理解するというのが趣旨だったはずなのに、インド神話と結びついてファンタジックな伝説や仏像がいっぱいできてしまった。まあ、真相はわからないが、自分の利益のためにそうしたヤツらがいるよな…というのが印象である。

 自分は無宗教者だということに自覚的な日本人であるため、こういったことを平気で言うが、進行している人のことを悪く言う気はない。その人が信じることで人生豊かになるならそれでいい。ただ、生まれたものには背景(バックグラウンド)があるよという話だ。

 

辺獄はエラの行った先

 エラは物語の中ですごく哲学している。とてもかっこいい。

 クラウストルム修道会は独自の規律を持っていて、それは洗脳がうまくいきそうにない奴を片っ端から殺すための規律なのだが、同時に迷いのある人間の理性をぶっ壊して洗脳を強くするためのものでもある。そのため、腕を切ったり、牢獄に閉じ込めるなどの罰や、拷問や、処刑も修道女たちの手で仲間同士でやらせる。できなきゃお前も反逆者理論である。

 実際、修道会に身をささげた人たち(ムター(お母様)と呼ばれる修道女たちなど)は、もう、食事に薬を入れて幻覚を見せることや、剣や銃で人を殺すこと、疫病を流行らせて大勢の死者を出すことなどに全然ためらいがなくなってしまっており、狂信者の一団といえる。彼女たちが敬虔な信徒だと言われても、実際やっていることは下の下でしかない。ただ、集団の中でそのことを冷静に俯瞰することがなにより大変なのである。

 エラは修道会を生き延びるために上の人間の目を欺く演技を続けた結果、処刑人に指名されるわけだが、ここで当然、殺人や腕切りをやらされることに葛藤を覚える。そこに抵抗を持たなくなったら修道会のヤツらと変わらない。作中では、「向こう側」へと堕ちてしまうと表現されているように、集団のなかで流されずに自己実現をしつつも生き延びて総長を殺すチャンスを得なければならない。どうするか?

 この部分は、本作の物語のなかでも本当に考えることが多く、読む価値ありといえる部分だ。

 結局、エラは辺獄に行くという覚悟をすることでこの問題に相対した。そこに至るまでの思想を是非多くの人に見てほしい。

 

まとめ

  本作は決して長い話ではないが、上記のような話以外にも、食べ物を得るためのサバイバル的な要素や、様々なヒントから修道院の洗脳の仕掛けを見破っていく推理モノなどの要素が入っており、バランスよくまとまっていて飽きさせない。巻数も少ないので一気に読むことができるだろう。

 

 エラはとても意志の強い少女であり、何があってもあきらめない。人よりはるかに多く考えて、彼女のもつ強気にむしろこちらが引っ張られてしまうくらいだ。彼女のように、根っこのところで屈することなく生きたいと思わずにはいられない。

 

身体だけでなく意志の力を強くしたいと思う人は是非読んでほしい。

きっと思うはずである、彼女たちのことを忘れたくないと。

 

 

おしまい

 

 

 

 

この世界の片隅に(2)作品のテーマ

こんにちは。

今回は、『この世界の片隅に』の(2)を書きたい。

(1)の投稿からずいぶん間が空いたことを反省している。

2019年末から2020年史にかけて、いろいろ他のことにかまけていたり、映画を見に行ったりしていたら、いつのまにか2か月以上経過していた。

 

すでに『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開しており、自分も何度か劇場に足を運んで、片淵監督の話を聞きに行ったりもした。

映画を見るまでは、作品を評価するあまりにこんな自分が言えることなどあるのかと気後れしていた。しかし、映画を見て、あらためて記事を書きたいという思いをもちなおし、こうして筆を執ることにした。

 

この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)

 

 

さて、今回は、『この世界の片隅に』という物語を読み解くにあたって、まず考えたいことがある。

それは、この作品のテーマだ。

これについては、誰しもいくつか思い当たるものがあると思う。

自分が思うところを挙げてみたい。

 

1.戦争(空襲、広島と原爆)

2.生活(日常の描写)

3.女性(男女の仲、時代)

4.笑い(ありゃー&トホホ)

 

パっと思いつくのはこのようなところか。

もちろん、「現代」の時代背景はかかるすべての作品に影響を与えるに違いなく、作者の様々な思いがこの作品に込められていたということはあるだろうが、想像の域を出ないことはここでは大きく触れず、あってもインタビューなどをもとに推察することとしたい。

 

戦争モノという見方

本作をに触れた誰もが感じるのが、この「戦争」というテーマだ。

特によく言及されがち(あえてこう書く)なのが、

反戦

・戦争の悲惨さ

・戦争の惨禍

・原爆の恐怖

といったことだ。

つまり、「第二次世界大戦や太平洋戦争が日本にすんでいた一般人に対してどういう被害をもたらしたか」について書いた作品であるという見方だ。

 

日本では長い間、特に夏の終戦記念日の近くになるとよくこうした「戦争の悲惨さ」をテーマに原爆や空襲の被害にあって苦しむ人々を主人公にした映画やドラマがよくテレビで放送されたりした。

この手の話はいわゆる「戦争モノ」としてカテゴライズされた。本作もこの「戦争モノ」の一つだと受け取られたという話である。

日本で作られた「戦争モノ」は、当然その手の話は主人公が死ぬ、ヒロインが死ぬ、家族が死ぬといった暗い話、暗い終わり方となるものがほとんどだった。観れば観るほど我々自身が暗くなってしまい、もうたくさんだという気分になってしまうものだったのである。

こうしたものを見て「戦争とは」について考えるのが大事ではないとは言わないが、これは、登場人物に感情移入するより先に恐怖や陰鬱さを感じてしまい、人間が本能的にこの問題についてむしろ考えたくないと感じるような構造を生んでいて、閉塞感がすごかった。自分も学校に通っていたときはよく現場行き詰まりというか、結局何を伝えなければならないのかを整理できている大人が少ないと感じたものだ。

 

高畑勲監督の『火垂るの墓』に対する評価を見てもわかる。

火垂るの墓』は上記の戦争モノの代表として引き合いに出されてしまうが、このことが、見ている人がいかにイメージでとらえていて、作品のテーマを掘り下げようとか、伝えたいことは何なのかを考えようとしていないのかの証拠だ。

監督自身が言っているように、『火垂るの』のテーマは戦争の悲惨さではない。主に戦争後の話だし、結局あの話で重要なのは人間の心が抱えている問題なのだ。戦争は題材ではあっても、伝えたい焦点ではない。それを超真面目に考えている高畑監督からすると一番見てほしいのはその悲惨さとかいうことではなく、そうした環境に生まれる人間の醜い心の闇の数々であると思う。

 

話がそれてしまったが、『この世界の片隅に』は、原作者のこうの史代先生がこういったいわゆる「戦争モノ」をメチャクチャ意識して描いた作品なのだ。ゆえに、本作を見るとき、「戦争モノ」にカテゴライズして見てしまうことは是非にも避けてほしい

 

本作はどうやって生まれたか

「戦争モノ」を意識して描いたことは、先生自身が『平凡倶楽部』の中で述べる通りである。気になった人はぜひ読んでほしいのだが、このエッセイ集の中に、『戦争を描くという事』という文章があり、ここにこうの先生の詰まる思いが記されているのである。

(例えば、「ところで私は戦争ものが大嫌いだ。」という書き出しで始まったりする!!)

この文章から本作がどのような思い出作られたのかをざっくり書けば、

・原爆ものと戦争ものは違う。特に周囲の望む「受容の場」が。

・戦争ものはつじつまが合わないし、不自由である。だから嫌いだ。

・それでも戦時の導く結論が戦争ものの結論に重なるのであれば、そこに真理が隠されている筈である。

・戦争ものの不自由さから離れて、先人の人生に沿い、語られない何かを探ることで、我々に理解できなかった部分を補えるかもしれない。

・戦争における英雄の死ではなく、戦時の人の生に沿い、どう生きていたかを描く。

・昔の女、玉音放送での涙など、自分が昔から疑問に感じていたことを取り上げる。

・戦時中人々が抱いていた「夢」について描く。

・暮れの戦災には広島の原爆が心理的に重要に関わっていた。

・私たちは戦後に生まれたからといって戦争を知らない世代では決してない。

・戦争を体験した人たちがずっと亡くした人を想って泣いてばかり、国に対して怒ってばかりの人生を送ったわけではない。いろいろな記憶を語り、同時に秘めながら私たちに接してくれた、ということは私たちにしか伝えることのできない現実である。

というような内容になる。

 

実際のテーマ

こうして生まれた本作は、もちろん、戦争の描写はあり、戦争は主人公すずの人生に深く関わっているのは間違いない。ないが、時代背景という題材の一つであって主たるテーマではないと感じる。

完成した原作から感じることとして、テーマとして重要と思えるのは残りの2、3、4の方なのだ。

これは戦争がこの物語の中心ではないからだ。

中心は「人」であり、彼らの「人生」であり、人生の中の「日常」である。

つまり、この物語は、人々に対する空襲や原爆や玉音放送を描いているのではなく、空襲や原爆や玉音放送に対する人々の反応を描いていると感じるということだ。

この物語は、「人々の日常」が中心にあり、「日常」には「時代背景」が色濃く出る。「この時代の生活」には必然的に「戦争」の影響が色濃く出た、という構築の仕方である。

だから、日常というものを一つ一つの出来事の連なりとして扱っている。戦時下の日常生活はこうだったとひとくくりになっているものを解きほぐして、自分の今の生活と比較する。それにより、「戦時下と一言でいうけど、普段のああいうときやこういうときはどうしていたのだろう」と思いめぐらせ、資料を調査し、だんだんと見えてきた細かい像を映しているのだ。

 

テーマと構成の連動

そして、このテーマに沿うように、マンガの構成も練られていると感じる。

本作の連載の特性上ゆえともいえるのだが、非常に特徴的なこととして、作品内の時間の流れ方がある。本作には多くの物語に見られる手法が存在しない。

それは、

回想がない

・同時間帯を別の視点で映すことが(ほとんど)ない

ということだ。

つまり、回想シーンで時間が巻き戻るとか、誰かのシーンの後に同じ頃別の誰かはこんなことをしていましたというシーンがほとんどないのである。

空襲で晴美ちゃんが亡くなった時にすずさんが当時の状況を思い出すシーンや、広島で拾った戦災孤児の出自を映すシーン、リンの出自を映すシーンはあるが、それでも時計が全然止まってないというか、基本的に流れっぱなしなのである。

 

本作の連載は昭和19年~20年の中での時間の流れ方と全く同じスピードで連載するという方法をとっていた。原作でも映画でも19年の〇月、20年の〇月と書いてあるのは、実際にその日に起きたことや天気を調べて描かれているためだ。可能な限りの際現にこだわって書かれた本作は、この手法で「時間の流れ」も再現しようという試みがあったのだろうと思う。時間の流れは不可逆ゆえに、物語も基本的に不可逆で、時間を戻すことができないのである。

ただ、こうしてあえて時間的制約を設けて連載たことで、この物語は人の人生に化けたともいえるのだ。なぜなら、人生の時間は決して戻ったりしないからだ。

 

私はこの作品のテーマと構成の連動を感じて衝撃を受けたのである。

 

まとめ

 本作の生まれた背景から、是非、従来の「戦争モノ」とひとくくりにせず、先入観のない状態で見るとことで、本作の本当の魅力に気づくことができるだろう。

この作品に感じる衝撃の一つとして、構成との連動があり、この物語は「人の人生」のもつ時間の流れを再現したものであると考えられる。

 

残りの2(=生活)、3(=女性)、4(=笑い)について十分に書くことができなかった。残りは次の(3)以降とさせていただきたい。

また、「さらにいくつもの片隅に」の感想も別途書いていきたい。

 

 本稿は以上になります。

本稿を読んでくださった方、本当にありがとうございました。

次回に続く!

 

 

 

自分にとってのスター・ウォーズ

こんにちは。

年末年始の忙しさから全然記事が書けず、『この世界の片隅に』の記事も進まずで

情けない話だが、先に書いて一旦着地しておかなければならないことができてしまった。

それは、『スター・ウォーズ』についてである。

f:id:IElatte:20200118020827p:plain

スターウォーズのロゴ

はじめに

スター・ウォーズ』は、言わずと知れたビッグコンテンツで、同時に世界中に数え切れないほどのコアなファンを持つカルトコンテンツでもある。

生みの親ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』を作る過程で様々な映像クリエイト分野におけるブレイクスルーを引き起こし、そこで生まれた撮影技術や映像技術は間違いなく現代映画の礎となっている。

 

スター・ウォーズ』は現在「本編」となるシリーズが9作品ある。

9作品目である「エピソード9:スカイウォーカーの夜明け」が2019年12月20日に日本でも公開され、大変話題となった。

 

もっとも、ジョージ・ルーカスが関わったのは、1977年~1983年に公開された

スター・ウォーズ

スター・ウォーズ/帝国の逆襲」

スター・ウォーズ/ジェダイの復讐」

のいわゆる旧三部作と、

1999年~2005年に公開された

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐

のいわゆる新三部作の計6本である。

 

2015年~2019年に公開された

スター・ウォーズ/フォースの覚醒」

スター・ウォーズ/最後のジェダイ

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」

のいわゆる続三部作はルーカスフィルムがディズニーに買収され、生みの親が制作に関わらなくなったあとに制作されたものだ。

 

巷ではディズニーが作った新スターウォーズは、壮大な二次創作であり、本家と同列には語れないといった声も聞こえるが、こういった議論は終わりがないものだと自分としては考えている。

それは、このシリーズがかなり長い年月にわたって公開されているものであるがゆえに、最初に映画館で見た作品も違えば、年齢も様々、時代背景も様々、同時に公開していた映画や他の映像作品も様々と、各作品を1つのものとして評価するには、評価する視聴者の側が多様すぎるからだ。その中である種の結論のようなものが出るはずもなく、議論が永久に繰り返されるだけである。

ただ、熱く議論を繰り返すことは、作品の楽しみ方としては誠に正当な姿だと感じるし、これからも続いていくことを願っている。

 

前置きが長くなった。

これ以上の詳しい話やスピンオフなどについては、ウィキペディアなどの資料で自分で調べてくれればと思う。

私は私にとっての『スター・ウォーズ』とはなんなのかをここで整理しておきたい。

 

スターウォーズ第二世代

小学生の時分、映画館に見に行く映画といえば『ドラえもん』だった。そんな私が人生で初めてスクリーンで見た実写映画が『スターウォーズ エピソード1』である。

私は言うなれば「スターウォーズ第二世代」であり、「新三部作世代」である。

このことがスターウォーズの歴史においてどのような意味を持つのか?それがこの話のテーマである。

 

古典的スターウォーズファンにとって「新三部作」の評価は複雑である。旧三部作との違いが多くコミカルな描写が少なく悲劇的。さらに、ミディクロリアンなどの後付的な設定や、評判の良くないキャラ(ジャージャービンクスなど)など、マイナス評価も結構耳にした。

 

しかし、最初に見た映画が「エピソード1」の私は、まるで違う世界を見ている。

それは、私にとってのスターウォーズの基準は「新三部作」であるということだ。

 

思春期に見たものの影響は、我々が考えているよりはるかに大きい。子供のころの思い出ではなく、大人になっても人格の一部として我々の人生に影響を与えているといってよい。

 

基準としての「新三部作」

旧三部作は大筋として勧善懲悪ものとして完成されているが、新三部作は主人公アナキンが純朴な少年から悪の道に堕ちるまでを描く悲劇的なストーリーだ。しかし、見ているほうの少年の我々は、主人公アナキンの味方をする。主人公なのだから当然である。

いずれダースヴェイダーになるからといって初めから「コイツ悪い奴」とか思うわけないのだ。

少年はアナキンの心情に寄り添い、アナキンの敵を自分の敵と認識する。

少年の目から見ると、アナキンには敵が2つある。

 

1つはもちろんシスの暗黒卿や分離主義者の勢力。しかし、パルパティーンなどは表面上はアナキンの味方をしてくるので、敵意は向きにくい。主にドゥークー伯爵やグリーバス将軍などが敵と認識される。

 

2つ目の敵はジェダイ評議会だ。アナキンも評議会もジェダイだが、2つは本質的にかみ合わない。それはジェダイという存在の特殊性にある。新三部作における評議会は、保守的で、現在の秩序とジェダイの教義を守ることを第一に考えている。一個人の事情よりも銀河のバランスが重要という言い分があるわけだが、味方によっては冷たい姿勢なのだ。

 

そもそも物語における宗教組織はそれほど良い描かれ方はしない。宗教は一種の分断を生み、信じる者と信じない者に人を分けてしまう。

スターウォーズにおける宗教組織はまぎれもなくジェダイ評議会であり、彼らも腐敗した共和国の一部であることに変わりない。彼らは苦しむ民の星で政治体制を変えたりしないし、議員の不正を暴くことに力を注いだりしない。ジェダイが正義の味方であるというのは旧三部作の理屈であり、新三部作からみればもともと非常に偽善的な存在なのだ。

そもそも、「ジェダイの騎士」とは人間的な感情を極限まで抑え、自然の中に存在するフォースと一体化することで大きな力を使う戦士であり、こうなるには生まれ持った才能に加え、幼少時からの洗脳的ともいえる多くの訓練が必要なのだ。彼らは正義や悪という考え方で動かない。銀河のバランスへの「殉教」の姿なのである。殉教にあこがれる人は少なく、人間的な感情を排する戦士に共感することもなかなか難しい。

このような理由から、ヨーダやメイス・ウィンドウなどの戦う姿にかっこよさを感じつつも、ジェダイの騎士という存在は自分の中のヒーローとはなり難いのである。

 

また、共和国という存在にも新三部作基準派としては懐疑的だ。銀河共和国は非常に長い歴史を持ち、その間共和制で国を治めてきた。規模が銀河全体であるためわかりにくいが、21世紀の混沌の中にいる我々にとって、民主主義がこの期間にこの規模で健全に保持されるとは考えにくい。

「旧三部作で帝国を打倒した後、また元老院をつくって機能しない民主主義を復活させても仕方がないだろう。腐敗が始まるだけだ。なにも解決してないじゃないか。」

というのが新三部作基準で見た人間のささやかな抵抗である。

 

もちろん、公開した時系列と、作品の時系列が逆であるがゆえに、作品への時代性の反映までも逆転している印象はある。旧三部作には、第二次世界大戦を経験し核兵器への危機感を強めた20世紀の影響が色濃く出ている。一方、新三部作には、20世紀末から21世紀初頭の、バブルがはじけたことによる経済の停滞や、民主主義の堕落とそれに代わるものを見出せない閉塞感が出ている。

 

21世紀に生きる少年の目から見れば、評議会は頭の固い大人であることこの上なく、共和国は力を失った民主主義の成れの果て。頭の固い大人は、思春期の少年にとって非常に邪魔な存在の一つである。民主主義は少年たちが参加すらできない押し付け。何一つ新たなる希望じゃない。要はジェダイ」も「共和国」も、新三部作基準の人間にしてみれば、滅ぶべくして滅ぶ存在なのである。

 

旧三部作基準の大人たちがいくら新三部作にケチをつけようと、少年時代に刻み付けられたものは簡単に揺るがない。エピソード1も2も少年の目から見れば十分面白いし、ジャージャーも面白い。

 

時代の支持した野望的行動

新三部作の表向きの話は先ほど書いたアナキンの話だが、同時に裏側の話がある。

それはパルパティーンの野望の話だ。 時代背景を考えても、民主主義をぼーっと信じる人より野望的な人が勝つという展開が望まれたのかもしれない。パルパティーンの行動は新三部作において最も注目すべきことの一つといえる、野望的行動の連続だ。

 

パルパティーンは若いころからシスの修業をしていて、シスマスターになったが、結局かなりの高齢になるまで目が出なかった。なんとか元老院の一地方議員(ナブー星系選出)にまでなったが、その先どうするか。

まず、課税によるもめごとで通称連合をたきつけ、自分の故郷ナブーの侵略させる。そして、平時のリーダーではなく戦時のリーダー(強いリーダーシップのある人)をもとめる世論に変え、そこで最高議長に立候補して、ナブーの同情票を集めて当選。銀河共和国の最高権力者となる。そして分離主義者をたきつけてクローン戦争を起こさせ、対抗手段として共和国軍を再創設させる(自分から言うのではなく、ジャージャーに動議を提出させる)。ジェダイを最前線に立たせて数を減らしつつ、共和国軍を強化。さらに、元老院で民主的に独裁権を手に入れ、皇帝の地位に就く。アナキンを誘惑し後釜として確保しつつ、デス・スターなどを用意していたドゥークーを用済みに。すぐにクローンに仕込んでおいたオーダー66を発動させてジェダイを抹殺。同時に独立星系連合の分離主義派を用済みで抹殺し口封じ。共和国を帝国に再編成し、強くなった共和国軍は帝国軍に。デス・スターを完成させ、銀河の支配者となる。

 

グウのでも出ない完ぺきな計画だった。チャーチルように戦時の指導者として当選し、ヒトラーのように民主的に独裁者となったのだ。

 

ほめられない野望だが、パルパティーンがこのためにあらゆる人間関係を捨てて努力したことはうかがえる。すでに腐った国体を維持しているだけのジェダイが負けても仕方がないという感じがしてしまうのは無理からぬことではなかろうか。

 

1つの可能性を示したエピソード8

続三部作のエピソード7~9は、全体の評として、前6作ほど心に響くものではなかった。それは私がすでに少年ではなく大人になってしまったことも多分に影響しているので、制作側だけに責任を求めるつもりはない。ただ、エピソード7と9は壮大な二次創作という批判を跳ね返すほどのパワーはないし、エピソード8も新しいことに挑戦する姿勢はあったが、過去作への逆張りという印象をぬぐえなかった。

 

ただ、エピソード8は、今までのスターウォーズを振り返り、これからのスターウォーズに向かって行く上で、なんとか一つの可能性を示せていたと思うので、最後にそれに触れて締めとしたい。

 

「最後のジェダイ」を見て思うのは、スターウォーズは元からサーガだったわけでもスカイウォーカー家の物語だったわけでもないのでは、ということだ。
一番最初の話(現在のEP4)は、片田舎の少年が、お姫様を救い出し、ワルとともに敵を蹴散らして銀河のヒーローになる話だった。(だから最後に表彰のシーンとかついているのである。)

 

「最後のジェダイ」では、ヒーローになった少年ルークの物語が幕を閉じた。片田舎で見つめていた夕日と同じ夕日を最後に見つめながら。ルークはルーカスの写し鏡であり、深読みすれば、ルーカス監督の物語が幕を閉じたともとれる。

 

「最後のジェダイ」は私小説的とも評される。ひねくれたルークはルーカスで、まったく行動に一貫性がないレジスタンスは今の制作現場そのものではないかと。

個人の印象としては、ちょっと度が過ぎるほど観念的で、脚本にも難はあるが、スター・ウォーズという物語に対し、最も真剣でフラットな見方をしている作品だ。サーガではない。伝統を守り伝えるのではなく、古い書物は燃やしてしまう。一から見直すという宣言ではなかろうか。そして、今までのスター・ウォーズの中で築かれてきた様々な約束事(=正しさ)をことごとく疑っている。これは、ジェダイと共和国を疑った新三部作基準派の想いに似ている。

 

だから「最後のジェダイ」は、今までの流れに納得がいっていなかった人にとっては、一つのヒントになるだろう。新三部作基準派である私も、少し肯定されたような気分になることができた。

逆に、古き良きスターウォーズの正義を求めている人にとっては悲劇だ。そんな話は1ミリもする気がない。ルークの「素晴らしい。すべて間違っている」というセリフや、ベネチオ・デル=トロが演じる賊の「世の中からくりだらけだ」という言葉が、監督の作家性そのものである。

 

観客が登場人物の中で正しい誰かを見つけてライドするのが非常に難しい作品だが、希望はある。
それは最後のシーンだ。これは素晴らしい終わり方だった。
あの少年がさりげなくとった行動。少年は、フォースを自然に使って掃除する箒をとった。
少年は、ルークと同じ、そしてレイと同じなのだ。
最も最初のスター・ウォーズとは何だったか?上述のように、それは何者でもない人の中に本当の「新たなる希望」があるのではないか?というメッセージだ。「最後のジェダイ」がそれを思い出させてくれる作品であることは間違いないと思う。

 

次のシリーズの中心人物は「最後のジェダイ」のライアン監督であるという。

これが我々にとって朗報であったのか。

希望を胸に、次のシリーズを待つこととする。

 

 

おしまい

 

 

この世界の片隅に(1)事のはじめ

今日はある作品について書いておきたい。

この世界の片隅に』(こうの史代、2006〜2009)である。

書くことが多くて書き切れないと思うので、本記事は(1)とし、(2)以降に続きを書く。

 

  

この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に : 上 (アクションコミックス)

 

 

 

この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に : 中 (アクションコミックス)

 

 

 

この世界の片隅に : 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に : 下 (アクションコミックス)

 

 

 まず、この作品との出会いについて簡潔に書いていきたい。

 

はじめに

本作は2016年に片渕須直監督によってアニメーション映画化され、大変話題になった。自分も大きな影響を受け、同じ映画を何度も見に行くという人生初の体験をした、非常に印象深い作品である。

 

同時に、原作を読み、その完成度に圧倒された。こうの史代先生という作家を知り、そのディープで深い作家性にハマるきっかけになった。本作を皮切りに、『夕凪の街  桜の国』、『長い道』、『ぴっぴら帳』などを読み進めた。

 

ようやくこうの史代という作家について少しだけわかってきたという頃、ついに発表と相成ったのが、いわゆる「長尺版」の話だった。2016年公開版では泣く泣くカットした、原作のある一連のシーンを追加して、2019年12月20日より、

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

として公開されることとなった。

ikutsumono-katasumini.jp

 

片渕監督や真木プロデューサーが作りたいといっていたものが現実となったのである。もともとPVをつくる資金がなく(3年かけて制作費の見積り4億円が集まらなかった)、クラウドファンディングを行ってスタートした作品が、ここまで来たことは、特に関係者でもない自分にとっても感慨深い。そしてこの思いを多くの人と共感できていることが大変嬉しい。

 

この公開を迎えた現在、これまで自分が見てきたこの作品について、自分なりに整理しておきたい。正直書くことが多すぎるだろう。

 

この記事で触れるのは全体的な内容に留め、詳細な点は後日書く(2)以降としたい。細部こそ重要な作品であり、適当なことは書きたくないからだ。

 

原作漫画の魅力

本作の性質を語るキーワードとして「再現」「日常」「アナログ(連続性)」の3つを挙げたい。

 

こうの先生の作品は、実際にある(あった)ような日常的な事柄について調査・分析した上で、より正確に、漫画の中に再現したものとなっている。これは一律のスタンスであるというよりは、作品によって変わる。とりあげるテーマや当たっている焦点に対して、どの程度の詳細さが必要かということまで考えられた表現である。

 

それは例えば、背景に描かれる草木であったり、料理の仕方だったり、着物の縫い方であったりといったことだ。おそらく先生自身がそういったことを考えるのが好きなんだろう。全編漫画ではないが、図解がたくさん載った『平凡倶楽部』はそうした日々の記録を主観的に綴った随筆家としての一面が表現されている。

 

平凡倶楽部

平凡倶楽部

  • 作者:こうの 史代
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2010/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

詳細な再現によって形作られる日常は、さらにストーリーによってダイナミックに動き出す。淡々とした日常の連続は、様々なストーリーコンテンツの中ではつい省略されてしまいがちだ。だが、そこに焦点を当てると、同じように見える日常に、実はものすごく沢山の情報が隠れていることがわかる。

 

こうの先生のストーリーの作り方には①特にミスリードが上手い、②毎回話にちゃんとオチを入れる、③伏線をなにげなく回収するといった特徴がある。

 

3つとも本作でもほかの作品でも同じように発揮されている。

 

①と②は4コマ漫画の手法を活かしたものと思われる。長谷川町子先生の『サザエさん』が引用にあるように、この影響は明らかだ。4コマ漫画的に短く起承転結を作り、オチには「ミスリードからの実はこっち」や「漫才や落語的な掛け言葉、ダジャレ」、「漫画表現の重複を利用したどんでん返し」などを持ってくる形が頻繁に出てくる。この手法が本当に高い作家性を作っており、あなどれない。

 

普通の4コマ漫画と違うのは、1話完結型にするのではなく、前の4コマと後の4コマに話の連続性を持たせることだ。これをいくつもつなげて大きな話ができている。前の話に伏線を入れて後の話で回収する。しかも、回収はさりげなく、前の話を読んでない人でも後の話だけで4コマとしては成立するように作ってある。これを連載当時に読んでいた人は、この構造に気づいたら戦慄したに違いない。

 

さらには、何人かの登場人物の話を同時多発的に進行することがあり、それぞれが連続性をもって、それぞれ伏線を回収しだす。このため、見た目以上に話の情報量が多く、すべてを詳細に追うとなれば、何回もマンガを読んだり映画を見たりする人が多くなるのもうなずける。自分も何度気になって映画館に確認しに行ったことか。

 

こうしたことから、先生のストーリーづくりは、日常を描く話なのに、なにが起こるか想像がつかないことが多々ある。また、のほほんとした平和な日常が続くわけでもなく、登場人物の感情豊かに描かれる。家族から主人公にいきなりふっと毒が出たり、いつも優しい隣人が陰口を言ったり、差別や不倫や浮気、嫉妬、やっかみなども出てくる。その他のことで、生々しくでもはっきりとは描かないという場面も多い。常に登場人物の笑いや会話の中に正の感情と負の感情の両方を含めているのだ。

 

漫画表現は、先生自身が最新作『ギガタウン漫画図譜』で解説する通り、それぞれの表現に意味がある。絵には、すでにいろいろな場で語られていることだが、滝田ゆう先生、松本零士先生の影響がある。そしてカラー絵は水彩が多そうだが、印象派ゴッホの影響があると言われている。本作では見開きカラーになる箇所があり、ゴッホの『星降る夜』が意識されていると思われる。

 

ギガタウン 漫符図譜

ギガタウン 漫符図譜

 

 

また、先生は必ず自分なりの新しい表現を出し続けている作家でもある。利き手でない左手ですべての背景を描く、画材にこだわる(ペンで描くコマ、鉛筆で描くコマ、クレパスで描くコマ、筆ペンで描くコマが分かれている)といった部分では、表現に感覚的なゆらぎを出さず、必ず登場人物の感情や境遇などのストーリーに関連した理由がある。感覚で描くのではなく表現自体に理由があるタイプの作家だと思う。その理由を探りながら読んでいくのも、読者の大きな楽しみの一つだ。

 

映画『この世界の片隅に』の魅力

 原作者こうの史代先生の魅力については上記の通りだが、映画においては監督のことに触れなければならない。

 

片渕須直監督である。

 

片渕監督については以前『名探偵ホームズ』の記事で少し触れたが、日本のアニメ創成期からご活躍されているし、脚本家としても一流である。本作より以前に『魔女の宅急便』の制作に深く関わっているほか、『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』『ブラック・ラグーン』などで監督を務めている。どれも素晴らしい作品なので、興味があればぜひ見てほしい。

 

本作において、片淵監督は監督として非常にうまくハマったといっていいと思う。原作に対する理解が物凄く深く、こうの先生のやりたいことや作家としての特徴をよく理解し、それをさらにさらに突き詰めていこうという方向性が明確になっているからだ。ゴジラなどでもそうだったが、原作・原典をわかっている人が監督をやる映画は絶対面白い。

 

こうの先生がもともとかなり詳細突き詰めるタイプなのに加えて、片渕監督も同じタイプであるという。2人には違いがないわけではないが、長くなるのでそれは後日書くこととしたい。

 

ともあれ、2人の突き詰めによって、この映画では、ただでさえ多い原作の情報量に加え、色、環境音、効果音、音楽、背景、風景、時代考証、軍事考証、人々の行動の細部に至るまでひたすらに突き詰められ、とんでもない情報量の映画が誕生した。しかも映画の尺の関係で、原作以上に出てくる情報に対する説明がない。見る側のリテラシーも要求される、見ごたえ抜群の完成度である。

 

ただ、何の話をしているのかわかれば凄く面白いが、そうでないと逆に辛い。スピードが速いので、遅れるとすぐ次の話になってしまい、人によってはついていくのが大変だろう。筆者も初見はそんな感じだった。1回だけ見たという人の中に、何もわからないまま上澄みだけ掬って帰ってきた人がいても全然おかしくない。

 

また、この映画で片渕監督の作家性が前面にでているとは筆者は考えていない。ほとんどの映画では監督が作家性を発揮してこそ原作の小説や漫画が映画として成立するのだが、本作はその例にあらずだ。

個人的には、こうの先生の作家性が強すぎるので、これを縁の下から支えるのが監督の仕事になったのだろうと解釈している。それでいいのだと思う。原作の良さを消してまで監督が爪痕を残そうとするとかえってダメになることもあるのだから。

 

戦争というテーマ

本作は戦時下の話がメインとなる。舞台は広島県の広島(廣島)と呉だ。昭和20年の広島であれば、原爆投下の話は避けて通れない。むしろ日常を刻みながらそこに向かって突き進んでいくのがこの物語である。何が起こるかを皆がわかっている状態で見る日常の連続というのが、この話の構成の最も素晴らしい点の一つだ。

 

そして、今までの経験から、我々は戦時下で描かれる空襲などの悲惨なことについてもある程度想像をしてしまう。高畑勲の『火垂るの墓』や中沢啓二の『はだしのゲン』など、太平洋戦争をテーマとした作品はこれまで数多くあり、特に日本では毎年夏になるとそれらの作品に触れる機会が多かった。そのため、「戦争」=「つらい、悲惨」といったイメージがどうしてもついて回る。筆者も小学生の時、『はだしのゲン』の1巻を読むのが大変つらく、1回よんでからは触るのも怖かったほどだ。原作を知っているならともかく、初めて見る人間は、今回もそういった非常につらい経験を見せられて、最後は『二度と戦争をしてはいけない』というようなまとめで終わるのではないかと考えてしまうのは無理のないことだ。

 

しかし、 本作はいい意味でその想像を裏切ってくるだろう。登場人物たちは、読む人観る人にとって非常に身近に感じられることだろう。そしてそれゆえに、自分が当時にタイムスリップしたかのような没入感やこれまで以上の感情移入ができるに違いないし、戦争に巻き込まれたらどうなるのかについても、今までとは違った見方で考えることができるだろう。

 

この話題はまだ書かなければならないことがたくさんある。

本当は、筆者は、本作を「戦争モノの映画」というジャンルにくくり、同じジャンルの別作品とあまり見比べて欲しくはないのだ。だが、その理由は次の機会とする。

 

まとめ

ともかくも、大変喜ばしいことに、現代にこのような1つのすばらしい作品が誕生した。

 

まだ登場人物を全然深堀できていないし、ここまで主人公のすずさんの名前さえ出せなかったが、続きとなる記事はいずれ出していきたい。

 

今は映画館に急がなければならない。

まだまだ書くことが山ほどある気がするが、いったん締めさせていただくこととする。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

→(2)へつづく

 

名探偵ホームズ

こんにちは

今日はあるアニメについて書きたいと思う。

タイトルは『名探偵ホームズ』。

 

※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。

 

f:id:IElatte:20191209004916j:plain

名探偵ホームズ

作品について

本作は1984年~1985年にかけてテレビ朝日系列で放送されていたテレビアニメだ。

御厨恭輔と宮崎駿が監督を務め、他にも今では日本を代表するような様々な面子が脚本や作画に関わっている。

また、宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』との併映で『青い紅玉』、『海底の財宝』が、『天空の城ラピュタ』との併映で『ミセス・ハドソン人質事件』、『ドーバー海峡の大空中戦!』がそれぞれ劇場公開された。

 

日本のテレビアニメの歴史の中でも注目すべき作品の一つということで、本作について感想を書いてみたい。

 

感想など

まず、本作はテレビアニメということもあって、一話完結型だ。そのため一話のなかで事件の起こりから敵との対決、アクションシーン、そして解決までもっていくことになる。話にもよるが、やはり30分に満たない時間中にこれだけ詰め込めるのはすごい。CMのアイキャッチが入ったところで、まだ15分しかたってなかったか、と驚くことがあったくらいだ。大雑把な議論だが、現代アニメより時間を濃密に感じることができるような気さえする。

 

本作はもちろんコナン=ドイルの『シャーロック・ホームズ』が原作だ。しかし、原作から想像される推理モノというよりも活劇が主体のストーリーといってよい。一話完結型であり、決まった敵が出てきて、毎回それを撃退するという、どちらかといえば『アンパンマン』や『ヤッターマン』的な展開である。難事件を解く爽快さというより、ホームズがどうやって敵を撃退するかというところが見どころになっている。

 

 

 

敵として登場するのがモリアーティ教授というボスと手下の2人組という『101匹わんちゃん』みたいな3人組。モリアーティ教授は確かに原作でもホームズの一番の敵なのだが、本作では、彼ら以外に敵役がほぼ出てこないので、視聴者は、見る前から犯人が分かっている状態だ。そのため、推理があったとしても、モリアーティがどうやって犯行をしたか(するか)ということが主体になり、さらに言えば、話はその後のモリアーティとの逃走劇に時間が割かれる。

 

TVアニメ『ルパン三世』のセカンドシーズンを見てもわかるように、当時、コメディタッチのドタバタアクションは宮崎駿の最も得意とするところだった。そういうわけで、特に宮崎駿が担当する回が多い前半はアクション主体の活劇になっているように見える。

 

特に個人的には、宮崎駿演出、片渕須直脚本、近藤喜文作画監督の回(つまり劇場公開された回)はやはり好きだ。これは好みの問題ではあるのだが、宮崎監督や、片淵監督のルーツを見ているような気がして嬉しくなってしまうのだ。

 

『ミセス・ハドソン人質事件』では、宮崎駿定番のロリコンが炸裂し、若き未亡人のハドソン夫人にモリアーティ教授ら敵方が魅了されるというシーンがある。これは『ラピュタ』や『紅の豚』でも出てくる、宮崎監督が大好きな展開の仕方で、もっと言えば本作より前の『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』でも出ていた。ハドソン夫人が誘拐されたにもかかわらず教授たちに優しくするところとか、キャラクターの作り方がうまくて参ってしまう。

 

『青い紅玉』は原作を思わせるかっこいいタイトル。カーチェイスに次ぐカーチェイスで、ラピュタの原点ここにありという感じだ。サンドイッチや夕食のシーンなど、緩急良く進み、また、スリをやっていたホリーという女の子の描き方も短い間に生い立ちや性格がよく分かる。そして落ちも見事という、片淵須直脚本が光る名作だった。

 

ドーバー海峡の大空中戦』では、ハドソン夫人が大活躍する。それまでの話からは考えられないくらいキレキレの動きを見せるハドソン夫人に、峰不二子ナウシカの要素が入ってきてるなあと思ってしまう。さらに、この話は『紅の豚』のベースになっているように見える。ハドソン夫人はその昔、飛行機乗りたちのアイドル「ホリー」であり、パイロットと結婚したのだが、早逝されてしまう。これは完全に『紅の豚』のジーナと同じ境遇だ。しかも30分の中でものすごい数の飛行機が登場し、空中戦もやる。宮崎駿エッセンスが詰め込まれた回だった。

 

キャラクターの魅力

本作の主人公は誰なのかといわれると、実はよくわからない。もちろんタイトルの通りホームズは主人公なのだが、そこは原作やあまたの作品で描かれてきたように、スッキリとしないものがあるのである。

 

というのも、シャーロック・ホームズという人は、どこで身に着けたのかという様々な知識や技能をたくさん持っており、いつも変な実験をしている、いわゆる「変人」なのだ。魅力的な人物ではあるし、子供に善悪の分別を教える良識人ではあるのだが、本心で何を考えているのかほとんどわからない。視聴者が共感できる人物ではないのである。

 

振り切りすぎているホームズに対してバランスをとっているワトソンがいる。この人はすごく素直で、あらゆることに対して常識的な、ある意味で普通の感想を抱く人物である。視聴者の心を代弁するキャラクターだ。

 

ハドソン夫人は先に述べたように、いろいろな過去を持ちつつも、いつも家で待ってくれている、安心感を与えてくれる素敵な存在だ。

 

そして、最も魅力的な人物が、モリアーティ教授だろう。このアニメの面白さの7割はこの人によるといってもいい。まず出で立ちだが、白いマントとシルクハットに片眼鏡。白い(三世でない元祖の)ルパンのようなイメージなのだろうか。偶然かわからないが、『名探偵コナン』の怪盗キッドと完全に同じ格好である。

そして自信家の口ぶりで野心家、犯罪者として自覚的であり、プライドがある。さらに、あれだけの短期間に次々犯罪を思いつき、実行に移す行動力もあって、貧乏でも成功まであきらめない粘り強さもある。

また、彼は犯行の際、作戦の立案者であり、工作機械や基地の設計者であり、よくわからない乗り物たち(プテラノドン型飛行機やトラクター型装甲車など)のドライバーを務めることもあり、同時に建物に率先して忍び込む実行者でもあり、非常に優秀な人物なのである。

二人の部下は典型的凸凹コンビで、古き良きというか、愛すべき3人組である。

 

もちろんホームズは主人公なのだが、ぜひモリアーティにも注目して見てみてほしい。

 

まとめ

本作は宮崎駿監督をはじめとする様々な方の昔の仕事をみるにはとてもいい作品だ。ここで実力を発揮し、好きなエッセンスを詰め込み、後々の仕事につながる様々なことを実験していることを感じとれる。

本作を見ることで、のちのちの作品の見方も広がることだろう。

ジブリのアニメーションや昔のアニメーション作品群(ルパン三世世界名作劇場)などが好きな方は必見だと思う。

片淵監督ファンにもおすすめなので、まだ見ていない方はぜひ見ていただきたい。

 

 

彼がうわさの名探偵

彼がうわさの名探偵

  • 発売日: 2017/07/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

あさひなぐ

こんにちは。

今回は漫画の感想を。

タイトルは『あさひなぐ』(こざき亜衣、2011年~連載中)。

 

※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。

 

あさひなぐ (1) (ビッグコミックス)

あさひなぐ (1) (ビッグコミックス)

 

 

 作品の印象として

これはリアリティがある。

連載中なので結論めいたことは言えないが、まずそんな印象を抱いてしまう。

 

女子高生薙刀部の話で、地区大会、インターハイという、部活モノなら必ず出てくるといっていいおなじみの舞台。王道の青春スポーツモノ全開の設定な本作だが、どこかこれまで自分が読んできたものと違っている。良い意味で期待を裏切られる、爽やかで、熱くて、努力、友情、勝利がある!というものとは一味違う。

 

自分が感じている、このリアリティはどこからきているのか?

一言でいえば、ドロドロしているところだろう。

キラキラした青春ではなく、ドロドロした青春である。まるで重厚な青春小説を読んでいるかのように、人物の内面を描く場面が多い。それも、1行2行の心理描写ではなく、1話ガッツリモノローグが入ることなどザラなのである。思春期の人間の心理は底なしに深く複雑で、整理されていない。もうこれを描き始めたら、物語がガツンと深くなってくる。

 

登場人物は女子高生ばかりだ。しかし、ほのぼのとした雰囲気や、仲良しな雰囲気がほとんど出てこない。うわべの人間関係を描くのではなく、人間の内面にある正の感情も負の感情も全部出していこう、この年頃の女の子が抱えているものを出していこう、という意志があるように思う。

 

主人公の東島旭と、同じ代の女子部員2人との距離感にそれがよく表れている。

この3人は育ちも境遇も価値観も全然違う。同じ部活だから仲間な状態であり、クラスにいても絶対に友達にはならないような組み合わせの3人なのだ。

自分も長く運動部にいて経験したが、そういう人間とともに戦っていくのが高校の部活という場所であり、この危ういが強くもある微妙な人間関係が、リアルに見えて仕方がない。

 

部活の代ごとに微妙に人間関係の形が違うのも良い。1つ上は自分たちより仲がよく見え、下の代とは物凄くジェネレーションギャップがあるように感じるといったことだ。これも実際そう見えていたので、とてもよくわかる。すこし年が離れているにすぎないが、それだけ1年という時間が高校時代は重く分厚い壁なのである。

 

そんな感じで、とにかく高校の部活動というどこにでもあるものに対して、女子高生にとってのマジな感情、リアルな心理をぶつけるということをやっているのが本作なのである。

 

ガチでやっているけど全然うまくいかない、自分の理想とまるで違うものがどんどん出てくる、他人と比較し嫉妬する、才能の差を如実に感じる、そんなリアルな青春部活モノとして楽しんでいる。

 

この戦いはなんなのか?

薙刀部の話なので、当然薙刀の試合のシーンがたくさん出てくる。

しかし思うのは、 

女子高生たちがやっている、この戦いはなんなのか?

ということだ。 

 

単に武道の薙刀をやりに大会に来ているのではもちろんない。

いや、本当は元来そうだったのだが、実際にはそうではなくなっている。

 

彼女たちは戦いの場に物凄い荷物を抱えてやってきているのだ。

それは、思春期の複雑な心理だったり、微妙な人間関係だったり、家庭環境といったことである。より具体的に言えば、周囲の期待だったり、部長としての責任だったり、経験者としてのプライドだったり、卒業後の進路だったり、地元の先輩との思い出だったり、剣道からの転向だったり、病気で全試合もたない体力だったり、芽吹かない自分の才能だったり、エースだったのに怪我をして予定していた試合に出れなくなったりといった、重い重い荷物である。

 

それをもって戦いの場にやってきて、必死の形相で散っていくのが「大会」という舞台で起こっている、実際の出来事なのである。

 

そして、残酷なほど、こういった荷物を抱えていない者、荷物から先に解き放たれた者が勝者となる。それは、怪我をしていなかったころの宮路真春や、戸井田奈歩や、ふっきれた島田十和なのだ。

あるいは、吉崎百合音や河丸摂のように、荷物を抱えていても、そこから自らの哲学をもつことで、自分の荷物と上手に付き合い、強さを手に入れる者もいる。

 

女子高生たちの哲学では、足し算の哲学、引き算の哲学という概念がぶつかった場面が象徴的だ。足し算の哲学とは、人が積み重ねてきたものが今の自分の能力を決めているという考え方であり、強い人は積み重ねてきたものが人より多いからだと考えるのだ。対して、引き算の哲学とは、人の能力の限界はすでに決まっており、余分なものをいかに差し引けるかで目的のために使える能力が決まるという考え方である。強い人は、余計なことに力や時間を使わない人であると考えるのである。

 

河丸摂は筆者の最も好きなキャラクターの一人だ。引き算の哲学を身上とし、自分自身の分をわきまえて戦う。その哲学が強さにつながっている。

 

 この先、主人公の旭と二ツ坂高校がどうやって自分たちの荷物と向き合い、強さと勝利を得ていくのか、楽しみで仕方がない。きっと素晴らしい結論が描かれるに違いない。

これからも要注目の作品だ。

 

 

おしまい

 

ロングウェイノース 地球のてっぺん

こんにちは。

今日はある映画について。

タイトルは

『ロングウェイノース 地球のてっぺん』(2015年 フランス、デンマーク)。

 

※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。

 

この前、恵比寿の東京都写真美術館まで行って観てきた。

 

Long Way North [Blu-ray] [Import]

Long Way North [Blu-ray] [Import]

 

 

本作はフランスのレミ・シャイエ監督の作品。

フランスの長編アニメーション作品は結構たくさん日本に入ってきている。

これはおそらくスタジオジブリの影響が大きく、高畑勲監督や宮崎駿監督がフランス映画の『王と鳥』などに影響を受けたことから、日本での啓蒙に熱心なためである。

筆者としては、フランスのアニメーションはアメリカ映画のような大資本が投入された映画と異なり、日本に入ってきにくいので大変ありがたい。

 

まだ、それほど本数を見られてないので、ニワカな意見で申し訳ないが、フランスのアニメーションは、アメリカのディズニーやピクサーとは全く違う作りのように思っている。

 

昔の2Dのころのディズニーは起源的な物なので、その影響はもちろん残っているのだろうが、今のフランスアニメーションは、アメリカ映画に比べると芸術性を非常に重視しているように感じるし、派手な演出で魅了するというよりは、静かで、洒落ていて、でも人間の根源的な部分に訴えかけるような作品が多い。2Dアニメーションとの相性も良く、絵そのものがもっている力強さは、絵画についての技術的な下地や文化的背景がしっかりしているからだろう。

 

そういった特徴から、フランスアニメーションを見かけると、面白そうというよりは、これは見ないといけない作品なのではないか、と直感してしまう。

 

本作の魅力

本作もポスターを見かけたときからどうしても見たいと思い、恵比寿まで足を運んだ次第である。劇場で見ることができて本当に良かった。もちろん、どんな映画も大画面で見るために撮られているとは思うが、この映画は内容の面でも、大きいスクリーンが非常にあっているといえる。先程述べたように、一つ一つの絵にとても力があって、風景画を連続で見ているような心持ちになるからだ。

 

数ある描写の中で特に良かったのが、砕氷船の船上での作業シーンや氷を割って進むシーン、爆破で船の態勢を立て直そうとするシーンなど、あの時代にしかない船の様々な描写を見られることだ。こういった描写は実写だけでは中々表現しにくいので、アニメーションの強みが活かされている。

 

 

 

 

道中では、ロシアと北極海の、寒さ、厳しさ、美しさが同居しているような神秘的な雰囲気の景色が続く。その広大な世界観は、スクリーンで見ると圧巻だった。雪と氷に覆われた極地は、様々な自然の風景の中でも不思議な美しさを秘めている。凍ったオルキンの遺体が地平線に向かってゆっくり進む様は、まるで太陽の光に吸い込まれていくようだった。広大すぎる自然の一部に還っていくような、一種の救いがそこにあるように感じた。

 

自然に対してあまり言葉で語っても、自分の中の少ないイメージで作られた虚像でしかない。この映画のように、絵で語ることが重要であり、もっと言えば、実際に行って観るのが一番なのは間違いない。この記事でも、この辺のことは十分伝えきれるとは思っていないので、作品のテーマのほうを少し考えてみたい。

 

ストーリーについて

本作のテーマを探っていくにあたり、まず、ストーリーについて考えてみた。

本作は、主人公のサーシャが、北極海で遭難した祖父オルキンの船ダバイ号を探しに行く物語だ。王道と言える冒険譚だが、サーシャの強い思いや登場人物の心の機微が丁寧に描かれ、物語に厚みが出ている。

話の骨子としては、

「先人の後を追う少女と仲間の冒険」である。

この脚本は、ひねりを効かせて観客を話に引き込むものではなく、登場人物の感情に観客をフォーカスさせ、真っすぐに魅了するようなタイプといえる。

このプロット自体は決して珍しいものではなく、冒険モノの鉄板の一つといえる。

 

主人公サーシャが冒険を通じて成長していくところもしっかり描写されている。登場人物の成長や変化があることで、ラストまで人物の感情がどうなっていくのかと、見ているほうも引き込まれる。

サーシャは旅の中で、いろいろなことを学ぶ。オルガのもとで給仕として働き、初めてお嬢様の生活から離れ、社会で生きていくことの厳しさを知る。自分一人の力では決して祖父のところにたどり着けないこと、そして、それゆえに冒険の発案者として、自分にはともに旅した仲間への責任があること、おじいさんも同じ苦悩に直面したこと…。それら全てを、サーシャは冒険の中で、身をもって理解する。

 

見ている側としては、サーシャの学びを見ながら、自分が同じ苦悩、同じ問題に直面した場合のことを考えてしまう。

もし自分がこうした立場に置かれたら、どう言った行動をとるだろう?何を考え、仲間とどう向き合うだろう?

「地球のてっぺん」という極限の場所で、吹雪に遭難、食糧難という極限状態。

極限が作る人間ドラマに最後まで目が離せなかった。

 

作品のテーマは何か?

本作の大きなテーマとして最も注目したのが、サーシャの動機だ。これがこの物語で最も重要なポイントの一つであるのは間違いないだろう。とにかくサーシャの「おじいさんの船を見つけたい」という熱意一つで物語を引っ張っていくわけだから、見てるほうとしては、なぜそこまでサーシャは探しに行きたいのかという疑問に行き当たる。

これが結構いろんな見方があって面白いと思うのだ。

 

以下に思いつくところを挙げてみたい。

① 遭難したダバイ号を発見し、祖父の身に何が起こったのか、真実を明らかにしたい。

② 祖父がたどった道を自分も歩んでみたい。同じような冒険をしてみたい。

③ 祖父の叶えられなかった夢をこのままただの遭難で終わらせたくない。祖父の名誉を回復したい。

④ 自分だけが見つけた手がかりがあるが、周りの人に信じてもらえず、自分以外に行く人がいない。

⑤ 自分の見つけた手がかりが本当にあっているのか確かめたい。

⑥ おじいさんの功績を認めてくれない王子に目にもの見せてやりたい。 

⑦ だってそうしたいから。無我夢中で。

 

人間の心理的な根拠と、行動という結果は別に1:1の関係ではないので、筆者の感じた限りでは、最も大きいのは①であろうし、突き詰めれば⑦だともいえる。

サーシャはおじいさんに対する強い思い入れがあって捜索をしたいのだが、誰からもわかってもらえない。その必死さが裏目に出て、父親から失望を買い、家を飛び出して捜索を始めようとする。この瞬間に、サーシャの中でいろいろな感情の高まりがあったのは間違いないだろう。「真実知りたい」という欲求には、本能的な部分もあり、打算的な部分もあり、愛情もある。自分の寛恕すべてに自覚的ではないので、無我夢中ともいえるr。

 

どれか一つの理由なんてことはありえない。人間は矛盾した考えを同時に持つ生き物だし、周囲の環境もたいてい矛盾に満ちている。おじいさんを探しに行けば遭難のリスクは必ずあるし、家のことを考えたら大切なおじいさんをあきらめて、気に食わない王子におべっかを使うのがよさそうに見える。

 

ただ、サーシャは自分のやりたいことを貫いて、素晴らしいラストの運命をつかみ取ることができた。これにはやはり、初動のためのきっかけとして、いくつもの動機が重なって生まれた非常に強い思いがあるはずだ。とても一つの単純な理屈では説明できない。

 

だから、サーシャの想いは上にあげたもの全部かもしれないし、もっとあるかもしれない。他にもこんなものがあると気づいた人はぜひ教えてほしい。

 

他の作品

極地の探検物語や、海洋冒険ものは面白いものがたくさんあるので、また作品に触れたら書いていこうと思う。

海洋冒険ものだと『 エンデュアランス号漂流』とか。気になった方は読んでみてほしい。

 

エンデュアランス号漂流 (新潮文庫)

エンデュアランス号漂流 (新潮文庫)

 

 

また、極地に行く物語として、本作に近いものに『宇宙よりも遠い場所』というアニメがある。これも物凄くおススメだ。

 

 

 

 

 

追記

恵比寿写真美術館の劇場は、そんなに広いわけではないけど、静かでいい雰囲気の場所だった。ただ、座席の案内がちょっと疑問で、昔ながらの窓口でスタッフに口頭で指定するやり方なのだが、案内しているのが10席くらいある真ん中の列の端2席と真ん中2席なのだ。

 

なんでや!

10席に4人を案内するなら、間隔1つ開けてくれればええやろ!

 

 全然混んでないラーメン屋でカウンターの端から順に座らされる気分である。

どう考えても満員にはならない時間帯なのだが…。

筆者は真ん中に案内されたので、ガラガラなのに隣の人の肘をすごく気にしながら見る羽目になってしまった。座席ズレるのも、それはそれで気を遣うからイヤなのだ。

空いているときは楽な姿勢で見たいものである。

せっかく平日に来たのにと思わなくもなかった。

 

 

おしまい