ある男

今回は小説の感想を。

 

タイトルは『ある男』(平野啓一郎、2018年)。

 

※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。

 

ある男

ある男

 

 

平野啓一郎芥川賞作家であり、現在もっとも活躍している小説家の一人だ。本作もやはり、しっかりと組み立てられた構成と肉付けがあり、小説としての力強さを感じた。また、入念な取材や下調べに基づいた、非常にリアリティーのあるフィクションになっていたと思う。

 

本作に登場する、戸籍の交換というのは、非常に衝撃的なテーマだ。読んだ人の多くが、日本にそんな問題があることなど認識していなかっただろう。なにより考えさせられたのが、戸籍交換の目的である。今までの自分の人生を否定し、新たな人生を手に入れるという目的を人はなぜ持つのか。

 

もちろん、自分の人生の選択すべてに何の後悔もない人など、まずいないだろう。成功している他人の人生をうらやむこともあるかもしれない。ただ、本作で語りたいことは、そういった人間の人生の歩み方についてではなく、人間が努力によって変えがたい出自、遺伝子、性格、性別などといった、人間が持って生まれたパラメータに対してどう向き合うのが最良なのか?ということだろう。

 

こうした問いかけについて考えながら読み進めていくと、本作の構成は見事だし、非常に共感する部分でもあった。戸籍交換というテーマを、人間のもつアイデンティティやさまざまな社会問題、結婚などのライフイベントとうまく結びつけていたからだ。

 

また、一つ時代を感じるのは、東日本大震災や排外主義、カウンター・デモといったキーワードが、本来虚構である小説のなかで、際立って具体的なワードとして出てきたことだ。

東日本大震災が、特に日本に住む人々にとって大きな時代の境界線であるというのは、今や共通認識だ。「その前後」について論じることは、現代を舞台に話をするのであれば、もはや避けて通れない。

 

排外主義の問題もSNSの興盛と密接に関係し、非常に現代人にとって身近な問題となった。ヒトラー映画の記事とも重なる話題だが、この問題は非常に浅ましいものと根深いものが入り混じって混沌としている。本作の主人公である城戸のように、深く関わりたくないというスタンスがあるのは当然のことだ。真面目に向き合って見返りがあればいいが、おそらく相当な疲労を伴って何一つ解決しないことになるだろうという予測を誰もが立てる。ただ同時に、自分は深く関わらないという選択が、胸を張って進むべき道だとも思えない。

 

ともかく、自分のスタンスというものは、自分が一生考え続けなければならない命題であるし、これに対して自分の生まれ持った要素がどうかかわってくるのかを考える上で、本作はとても良いきっかけとなった。

 

平野啓一郎のほかの作品にも、これからさらに注目していきたい。

 

おしまい

 

 

 

2本のヒトラー映画

こんにちは。

今日も映画の感想を。

今日は2本まとめてやりたいと思う。

 

タイトルは

ヒトラー ~最期の12日間~』(2004年、ドイツ)

帰ってきたヒトラー』(2015年、ドイツ)

2本ともドイツ映画です。

 

※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。

 

 

 

2本見終わったころには、耳にドイツ語がバッチリ残って離れない。

前者はヒトラーが死ぬところまで、後者はヒトラーが現代に蘇ったら

という話。

続けてみると、連続性があって面白い。

もちろん、どちらもテーマがテーマなので、見どころはとても多かった。

 

ヒトラー ~最期の12日間~』

時代は第二次世界大戦末期。

タイトルの通り、ドイツ降伏までのヒトラーとその周囲の様子12日間が

徹底的にリアルに描かれる。

登場する場面はほぼ地下壕とベルリンの街並み。

地下壕のシーンでは、ドイツ軍の閉塞感、絶望感がよく伝わってくる。

あの空気の中でドイツ人の間に生まれたものとはなんだったのだろうか。

それを考えさせてくれる映画である。

 

本作品において注目すべきポイントはいくつかあるが、その一つが、

男・女・子供の違いがかなりはっきり描かれていることである。

人は追い詰められたときに本質を表出するというのは、今も昔も変わらない。

 

男は自分のために生きる生き物

追い詰められながらも、なお総統に追従する軍人たちだが、軍人(ほぼ男)は

結構意見が分かれて言い争う。

男は自分がどう生き残るかを第一に考える生き物だと見て取れる。

男にとって、総統に追従するのは、あくまで自分の立場や利益のためであり、

降伏を進言するのも自分の命のためだ。

 

おそらくだが、自殺するのさえ、自分のためだ。

決して総統のためじゃない。

紛らわしいかもしれないが、他人のためではなく

他人のために生きている自分自身のためなのだ。

 

もちろん人格者の医師や軍人もいなくはないし、ゲッベルスのように心底総統

を信じているように見える者もいるが、誰もが自分の信念のために生きている

という意味では、本質的にナチスの軍人たちと同じなのだ。

 

女性は他人のために生きることができる

むしろ女性たちこそが、ヒトラーに対して本当に狂信的である。

主人公の女性秘書、秘書仲間、エヴァ・ブラウン、女性看護師、女性飛行士…

そしてゲッベルス婦人。

みんな心の底からヒトラーに命を捧げていた。愛していた。

女性はこういうとき、本当にためらいがない。

これは男が総統のためというのと同じセリフでも全然違う。

彼女たちは、完全に他人のためだけに生きることができるのである。

 

男の中には、女性に対して逃げるよう説得を試みる人がいるが、

これも結局、本質的には自分のためにやっている。

「ドイツのため、君のため」と口では言うのだが、自分のせいで失う

ことになるのが嫌だからなのである。

だから、女性と話し合って、全然意見が合わないのだ。

 

子供は純粋で、染まっていないもの

そして子供。

おもな登場人物はヒトラーユーゲントの少年少女兵と、ゲッベルスの子供。

子供は、自分のため、他人のためという行動原理で動かない。

感じたままに行動する存在として描かれている。

人間として行動に一貫性をもつことを重視しない存在なのだ。

これは、子供が、人間としての純粋な状態を象徴しているということだろう。

彼らは、ヒトラーの信者にもなりえるし、それをやめて一市民になることも

できるし、死ぬのを嫌がることもできる。

そして、大人の登場人物は、皆この純粋な状態から遠く離れたところに

いるのである。

 

この3者の違いが、映画にリアリティを与えているとともに、

この歴史的事実を、我々の人生に重ね合わせ、自分のことのように考えさせる

役割を果たしているようだ。

 

本当に恐ろしい登場人物

この映画の中で、本当に恐ろしいと思ったのは、ナチスの将校たちや

ヒトラーという人物ではなかった。

 

映画の終盤に登場していた人物たちだ。

彼らは、ベルリンの混乱に乗じて、市民を共産主義者と断じて殺しまわり、

アメリカ軍が来て終戦になった時には、市民に紛れて何食わぬ顔で去った。

彼らは戦争犯罪など微塵も問われずに、どこかで生き続けた。

 

彼らは、SSよりも、ナチスよりも、ドイツ国民よりも、もっと原理的な

恐ろしい何かに属しているように思われた。

この世にある、我々が本当に警戒しなければならないものとは、

今も人々の間に潜み続ける、彼らなのではないだろうか。

 

 

※補足※

総統閣下お怒りのシーン

ヒトラーが地下壕の作戦室で将校を集めて怒りをあらわにするシーンは

非常に有名だ。

映画は見てないが、YouTubeでこのシーンだけ見たことあるなんて

人もいるくらいである。

このシーンで名優ブルーノ・ガンツの名前を覚えた人も多いだろう。

このシーンはパロディとして人気が高いらしく、後述の

帰ってきたヒトラー』でもガッツリ登場する。

 

 

帰ってきたヒトラー

この映画は、現代ドイツを舞台にしたフィクションの風刺小説が原作である。

ヒトラーが現代に蘇ったら?というドイツにとってかなり禁句のような存在を

あえて持ってくることで、現代ドイツの抱えている実に様々な問題を浮き彫り

にしている。

 

全体の特徴として、小説の中で原作小説が発売されるという、メタ的な

入れ子構造になっている。

 

 

過去と未来

まず、本作には過去と未来の対比がある。

1930年代(ドイツがナチスドイツになった時代)と現代を比べてどうか?

あの時の時代的空気と同じもの、違うものは何か?という問題提起だ。

 

現実的な背景として、ドイツは移民の問題を抱えている。

受け入れた大量の移民に対して自分たちの血税が使われることに満足

できない人たちが多くなってきているという。

 

これは、ヒトラーが現代で行う活動のなかでも広く触れられている。

ヒトラーがインタビュアーで細かく政治に関することを聞くことで、

様々な問題が市民の口から出てくる。

 

ただ、特に興味深かったのは、分断へ向かう思想の広がりが背景にあって、

台頭してきている右翼政党やネオナチを、ヒトラーが馬鹿にする様子だ。

これは作者のかなり強いメッセージがあると受け取っていいだろう。

作中のシーンでは、彼らが大した中身もなく、自分の常識の範囲でしか

行動できない、とても頼りない存在に見える。

良し悪しはともかく大きく歴史を動かしたヒトラーの視点を出すことで、

作者自身の強烈な風刺に説得力を持たせている。

 

ヒトラーという人物

さらに印象的なのが、主人公がヒトラーに魅かれたり、離れたりを繰り返す

構成である。これは、ドイツの若者の象徴として描かれているというより、

ヒトラーという人物の分析の結果として、彼が人々に与える影響力のような

ものを象徴しているように見えた。

 

ヒトラーは演説の名手として非常に有名だが、本作でも、非常に口達者で、

相手を説得する力に長けている。

そして、人を巻き込み、地位を徐々に確立し…といった感じで

今のドイツ社会にうまく溶け込んでいく。

これにはヒトラー自身の能力がかなり関係しているように思われる。

 

ヒトラーは優生思想やユダヤ差別といった悪い側面がある一方で、

内政的にかなり成功しているといわれている。

分断と民主主義を最も上手く扱い、ドイツで一番上の地位に上り詰めた

といえるだろう。しかも、民衆の支持をいかに得るかといった手段を

最も大事にしてきた人物であり、割と正攻法で独裁者にまでなった。

とにかく、自分の時代において、民主主義のシステムを最大限活用し、

内政的問題が得意であったために、今の不安定な社会においては

かなりの起爆剤になってしまいかねない人物なのは間違いなかったようだ。

 

ちなみに、ヒトラーの演説映像は動画サイトなどに転がっていると思うが、

個人的には、見た人に非常によろしくない影響を与える可能性があるので、

あまり視聴をお勧めしない

見るならせめて、『映像の世紀』(NHK)とか、音声解説があるものが

良いと思う。

 

下手すると『無駄ヅモ無き改革』に出てきたタイゾーみたいになってしまう。

 

 

本作でも、静かになるまで話さないとか、ヒトラー自身の演説技術が

参考にされている。

 

もちろん、ヒトラーがどのような人物だろうと、歴史的事実としては、

SSがやっていたことの中には相当ひどいことも含まれる。

ヒトラーの周りには、ならず者たちが寄ってきて、我が物顔で闊歩した

というのは、負の側面として確かに存在しているだろう。

 

ただ、同時に、彼はカリスマ性があって、多くの人から支持を得ることに

非常に長けていたのである。

一番身近にいた主人公が、影響を強く受けすぎてどうなったかは、

映画で確認してもらえばいいと思う。

 

歴史からの学び

ヒトラーの歴史的な行いから見ても、民主主義は、実は分断と相性が良い

面があることは確かだ。民衆の支持がいかにして作られるかを歴史が

我々に教えてくれている。

ヒトラーが復活しない現実世界でも、この民主主義の弱点を利用する人間が

いつ現れるとも限らない。

物語の最後で、テレビ局の女社長の女性がこういったのが印象的だった。

「私たちの、今までの教育を信じましょう」

 

歴史から学んだ教訓が確実に受け継がれていれば、民主主義が機能する

可能性は残されているかもしれない。

 

これからのドイツ、欧州、世界の流れを考える上で、非常に重要な作品

だった。

 

※追記※

ヒトラーのおどろおどろしさがよく出ている作品として、水木しげる先生の

『劇画ヒットラー』もおすすめです。

ぜひご一読ください。

 

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

劇画ヒットラー (ちくま文庫)

 

 

おしまい。

 

 

 

 

カンフーボーイズの見ている世界

本日も映画の感想になります。

タイトルは『クレヨンしんちゃん 爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜』

 

 ※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。 

 

今日は映画クレヨンしんちゃんについてです。

単なる子供向けのアニメでないことは周知のとおり。

特に90年代の本郷みつる原恵一監督や、ゼロ年代水島勉監督の作品は

評価も非常に高く、今見てもかなり面白いものが多いですね。

 

これらの影響で、今でもクレしん映画は毎年チェックしてしまうのですが、

近年は正直微妙なものが多かったのです。(ユメミワールドは良かった)

しかしながら、本作品は久しぶりに、個人的にはかなり良かったです。

少し深読みしすぎかもしれないですが、かなり世相を読んだ作品でもありました。

 本作には魅力的なシーンがたくさんありますが、この記事では2つのポイント

について考えてみたいと思います。

それは次の2つです。

今までの敵と本当の敵

ぷにぷに真掌が象徴しているもの

 

今までの敵

 ブラックパンダは、序盤から中盤にでてくる、非常にわかりやすい、

しんのすけたちの敵です。これまでのクレしん映画を見ている人なら、

春日部の人たちが徐々に洗脳されていき、町を守るために春日部防衛隊

が立ち上がるという展開を想像するでしょう。

いつものヤツなのです(この時点では)。

 

今までの映画のテーマ

 いつの間にか町が乗っ取られていく恐ろしさを、クレしん映画では幾度も

描いてきました。『オトナ帝国』や『踊れ!アミーゴ』などは、特にそれが

前面に出た映画でした。そういったこれまでの映画では、この敵との対決で

最後まで引っ張っていたのです。

敵との対立=価値観の違い がテーマだったのですね。

 

 

 

本作のテーマ

 しかし、本作はそうではありませんでした。ラスボスと思われた敵はあっさり

攻略され、真のテーマが現れてきます。

それが、ぷにぷに真掌の暴走(=行き過ぎた正義の心の暴走)です。

今までの映画が価値観の違いについての物語だとすれば、

これは価値観の強制への抵抗について語るものなのです。

 

この物語は、

「社会の中にみんなが依存するものがあり、その依存を止めようとしたとき

価値観の強制が行われる。この強制に立ち向かう主人公たち」

という、とんでもなく壮大な構造があるのです。

 

そして、現代にはこの構造が内在しているものがあります。

それが表現の自由と規制の問題や、SNSが社会にもたらしたものなのです。

ブラックパンダラーメンは、現代のネットにおける非常に依存性のある表現や

過激な表現の象徴と言えるでしょう。

例えば、ブラックパンダラーメン大店長がヤミツキ拳の秘孔突きで人々を

一つのことしかできないようにする場面があります。ネットの中で時々出会い

ますよね、同じ主張を繰り返すことしかできなくなってしまった人たちが。

SNSは現代の麻薬と呼ばれることもありますが、ラーメンを使ったSNSの象徴

がうまくハマっています。とにかくそのことしか考えられない、与えないと

暴力的になるなど、強いメッセージ性で描かれていました。

 

 そういったSNS上の人々の表現に対して、ぷにぷに真掌がやってきます。

ぷにぷに真掌は正義の暴走、強すぎるカウンターなのです。現実でも、

過剰な叩きや炎上、表現規制の議論などが起こってしまっているように。

ぷにぷに真掌の結果、人々は皆お花畑を見ているような顔になります。

カラッポな頭で、きれいな物だけを見ていればよいという価値観の強制が

行われたのです。

 

 本作は現代から次の時代への変化を見据えた作品になっているのです。

「わかりやすい敵を倒せばよかった時代は終わり、今は自分の中の正義の暴走こそが

本当の敵といえる時代なのではないか?」

というのが本作のメッセージのように感じられます。

 

ぷにぷに拳とぷにぷに真掌

 ぷにぷに真掌は、しんのすけたちが習う、ぷにぷに拳の奥義です。

元となる「ぷにぷに拳」は、柔らかさに重点を置いた拳法で、

最初は、”柔よく剛を制す”を体現する、ありきたりな物語のパーツ

のように思われます。相手の技を受け流し、反発させることに主眼を

置いた拳法ですね。ぷにぷに拳で一番難しい9番目の技に至っては、

なんと(⁉)相手の戦意を完璧に喪失させることが目的なのです。

9つの技はどれもふざけた名前ですが、意外と実用性があり、実際に

しんのすけたちを何度もピンチから救ってくれます。

 ただし、これらの技はあくまで拳法の表面的なものにすぎません。

「やわらか~い心」でいることこそが、真にこの拳法を会得する上での

才能なのです。

 

 「やわらか~い心」でいることは、序盤から、ガチガチのマサオ君が全然

技を会得できないところや、師匠の教えの中で繰り返し示されていますが、

特に、ぷにぷに真掌を受け取りに行ったところで最もはっきりとわかります。

 

 ぷにぷに真掌を受け取るために必要なものは何だったでしょうか?

ぷにぷにの精との6つの問答です。

ここでは、如何に常識や固定観念にとらわれず、純粋で、柔軟な心があるかを

試されているのです。

ランのように、正義感に支配された余裕がない状態だと、心が固いとみなされ、

奥義会得とはならないのです。

 

 正義感に支配された状態でぷにぷに拳を使うと、他者に対する批判を心が固い

状態で行うのと同じことになります。価値観の強制という、恐ろしいこと

が行われます。物語では、ランがあれだけ使いこなしていたぷにぷに拳ではなく、

暴力的な徒手で敵を倒すようになります。そして、あらゆる他者の心をカッラポ

にするまで、ぷにぷに真掌が暴走してしまいます。

しんのすけにトドメのぷにぷに真掌を使わないで去るランは、自分の暴走を

止めてくれる存在を求めていたようにも見えました。

 

一方、しんのすけは、ぷにぷに真掌の会得を認められながら、本能的に危険な

ものだと感じて会得を拒否しています。この流れも、これまでの映画と違う

ところです。従来だったら、奥義を手に入れるのはしんのすけであり、

自身のもつ独自性で敵を無双するところなのですが、本作はそうなりません。

敵を倒すことは本作で主人公が行うべきテーマではないのです。


 
 ぷにぷに真掌の暴走に対抗するためにとった、しんのすけたちの行動は、

本作品最大の見どころでした。

このシーンで描かれたのは、主人公の無双ではなく、離れたマサオを戻し、

5人で立ち向かうということでした。そして、マサオの使えないぷにぷに拳

で戦うのではなく、ジェンカ拳という新しい方法を模索しました。

ジェンカを一緒に踊った…というのはつまり、

鬼の形相で正義を執行することに飢えている人間を前に、

「お前もそんな怖い顔して立ってないで、こっち来て笑えよ!

一緒に歌って踊ろうよ!」と言ってみせたようなものだと思います。

 

これは子供向け映画としてベストな回答の一つではないでしょうか。

 

 しかも、本郷みつる原恵一時代のミュージカルのテイストをしっかり

受け継いで、町の人間が徐々に歌と踊りに巻き込まれ、いつもの笑顔を

取り戻す様子まで描き切っています。

これはまさに、お遊戯会や運動会で、大人と子供が一緒に踊ったあとの、

子供は楽しい運動の後の、大人は久しぶりに体を動かした後の、

爽やかな笑顔そのものでしたね。

 

他の見どころシーン

 本作には印象的な細かいシーンも多くありました。

食べ物に依存性の高いものを混ぜ、みんなでラーメンを食べる光景や

チェーン店が一気に広がる光景、悪質クレーマーに対抗する飲食店、

悪事を働いている奴らのCMが普通に流れる、あえて移民の街を壊して

ヒルズを建てる、マサオの劣等感と成長、ヤミツキ状態を脱する方法の発見、

しんのすけの主人公感へのメタ的な指摘などです。

 さらに、カンフー題材とあって、序盤からかなり徒手空拳のカンフーによる

アクションシーンも満載でした。

 

まとめ

本作は、今までのクレしん映画の魅力を受け継ぎつつ、新しいことに挑戦した、

大変意義のある作品に仕上がっています。

もちろん、103分という短い時間の中に詰め込んでいるので、中々登場人物の

掘り下げの時間がなかったり(特にマサオの劣等感など)、展開が早いなどの

面はあったとは思います。

 それでも、クレしん映画らしく、ブラックジョークや俗っぽさを随所に

出しつつ、しっかりメッセージ性も持たせている点は本当に優れていました。

 

以上です。

次回作にぜひ期待したいと思います。

 

 

最期までお読みいただき、ありがとうございました。

おしまい

コララインとボタンの魔女

こんにちは。

今日も映画の感想になります。

タイトルは『コララインとボタンの魔女』(2009年、アメリカ)

 

  ※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。 

  ※本記事に身体障害への差別的な意図は一切ありません。

 作品について

この作品はニール・ゲイマンという児童文学・ファンタジー文学作家の

同名小説の映画化ですね。

作っているのはイカという3Dストップモーション・アニメで有名なスタジオです。

本作品も3Dストップモーション・アニメであり、ピクサー作品のような

切れ目のないデジタルな3DCGとは少し異なり、コマ撮り(静止している

物体を少しずつ動かして、動いているように見せる特撮技法)でつくった

3Dアニメです。

 

コマ撮りだと、なめらかな動きではなくカクカクした動きを表現できます。

人形劇のアニメ版のような感じで、独特の味や世界観が出ますね。

※ピンとこない人は、子供のころに見た『みんなのうた』や、『クレヨンしんちゃん』の映画

のOPを思い出してください。

 

原作小説がヒューゴー賞を受賞しているということもあり、非常にガッシリと

話全体が構築された映画になっていたと思います。

適当につくった量産型の3Dアニメでは決してありません。

 

アニメの中でも、ストップモーション・アニメはまだまだマイナーな存在ですね。

でも徐々に認知はされているように感じます。

最近だと『KUBO』が話題になりました。

 

あらすじなどはAmazonでも見てもらえばよいので、特に書きません。

まずは作品のジャンルに少し触れたいと思います。

 

やはり面白いSF・ファンタジー

本作品に限らず、こういうSFやファンタジー系の作品は面白いものが非常に多いです。

アメリカの豊かな文学的土壌では、このジャンルは話題作品が多く、映画化されて

いるものも数え切れません。話題作の映画もだいたいはこのジャンルに原作があると

いっていいでしょう。

(日本だとSFとファンタジーは別物という認識があるかもしれませんが、

アメリカでは同系ジャンルという認識のようです。ヒューゴー賞ネビュラ賞という

有名な文学賞は、SF・ファンタジーを対象にした賞です。)

 

このジャンルのいいところは、

大きい嘘をつくことで、本質的なテーマを扱うことができる

ということです。

フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

では、「アンドロイドがいる世界」という大きな嘘があって、それをベースに

物語を作ることで、

あれ?生身の人間とアンドロイドって何がどう違うんだっけ?

そもそも人間のもっている人間としての自覚ってどこからきているんだ?

…というような本質的でデカいテーマを扱えるわけですね。

 

人間が一生のうちに自分でできる体験というのは非常に少ないので、

現実に起きそうなことだけで話をしようとすると、主観的な話しかできませんし、

面白い体験ができなければそれだけでアウトです。

 

もちろん突き詰めて悟りの境地まで行ければいいのですが、本質的なテーマを扱う

ために、いちいちそこまで時間をかけたら、いつ作品が完成するかわかりません。

人間の複雑な思索が、生きている短い時間の中で成り立つのは、ファンタジー

使っているからなんですよね。

 

2018年に話題となったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の中でも、

人間独自の「虚構(ファンタジー)について語る能力」について語られています。

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

社会に出ると、「いい年して空想にふけるな」とか「現実を見ろ」とか言われますが、

ファンタジーという人間独自の能力をうまく使いこなせないことのほうが、

よほど不幸なのではないかと感じてしまいます。

なぜなら、本質的で重要なテーマについて、人生の中で考える機会を失うからです!

 

語るときりがないですが、皆さんもぜひ、SF・ファンタジーに触れてみてください。

本作品のような、SF・ファンタジーに分類される児童文学については、

今後もじっくりとやれればいいなと思います。

 

作品の感想

印象的だったシーン

・プロローグと人形

手がたくさんの針でできた何者かが、女の子の人形を解体し、

新しい人形に縫い直している。

 

机の中には無数のボタンがペアで入っている。ボタンを目に縫い付けて、

完成した人形がどこかへ解き放たれる…

 

きれいすぎてCGか本物かよくわからないくらいですね。

思わず見とれてしまうシーンです。

 

後半でわかるんですが、これは子供の目を回収完了したので、役目を終えた

人形が返ってきたんですね。そしてコララインの見た目に作り直して、

また送り出すというシーンです。

 

ワイビーがコララインに似ているという理由で人形を渡しますが、魔女が毎回

作り直しているので、当然似ているわけですね。

コララインの手に渡るところまで、魔女のいつもの作戦通りなんんですね。

 

 

・妖精の輪

冒頭で、コララインが、家の周りを探険するシーン。とりあえず自分用の木の枝

ゲット。通称「魔法の棒」ですね。そのあとなんだか不気味な森で水脈探し遊びを

やりながら、古井戸を探すシーンがありますね。

この古井戸、とても伏線ぽいですが、注目なのは周りにキノコが輪状に生えている

ことです。これは「菌輪」という現象らしく、

英語では " fairy ring " (妖精の輪)と呼ばれるそうです。

妖精の輪には民話的な伝承があるらしく、別世界への入り口だとか、妖精の踊った

跡だとか言われています。

妖精で連想されるのが、チェンジリング(取り替え子)というヤツですね。

ダンジョン飯』に出てきたアレです。

 チェンジリングというキノコの輪に入ると、似ているけどちょっと違うものに

なってしまうという話が出てきました。

日本だと神隠しが似ています。

ダンジョン飯 8巻 (ハルタコミックス)

ダンジョン飯 8巻 (ハルタコミックス)

 

 冒頭からかなり不気味な雰囲気が漂う本作品ですが、この妖精の輪で、

この話は、取り替え子や神隠しのような話だよという暗示があるのかもしれません。

 

・主人公とピンクパレス周辺

主人子のコララインは、勝ち気で好奇心の強い女の子ですが、これは何となく

10台の女の子を主人公にするときの型の一つという印象です。

両親がかまってくれないというのも、冒険のきっかけとしてはテンプレですね。

それにしてもパパの顔の死に方がひどい…。

 

コラライン一家が引っ越してきたピンクパレス・アパートについてはどうでしょうか。

コララインとワイビーが会うシーンで、ワイビーが

「ピンクパレスは子持ちに貸さない。理由は言えない」と言っています。

この時点で、ワイビーは、この地域で昔から神隠しが起こったのを知っていますよね。

それもおそらくピンクパレスの一家の子供が毎回いなくなっていたのです…。

 

家の周りが霧に覆われていて、狭い範囲しか見えないというのは重要です。

これによって、コララインが行く当てを探し求めるという動きが生まれます。

日々の退屈を紛らわすものが欲しいコララインですが、家の中は古くて何もないし、

隣人は個性的で変な人ばかりです。

こうなると、「開かずの扉がメチャ気になる」という展開ができます。

 

・隣人

ジョーンズ家の隣人は、ワイビー、ボビンスキー、

ミリアムとエイプリルの女優姉妹の3者です。

コララインが魔女の世界で理想的な隣人増を見たり、家の周りをまわって目を探す

ので、前半はその対比で現実の世界を見せる構図になっています。

宝さがし物はこの伏線を作っておくのがかなり大事なんですね。

自分が今まで通ってきたところにヒントがあるという展開が、物語の振り返りを

生むので、見ているほうも面白いんですね。

 

また、この時に、ボビンスキーのネズミの忠告や、女優姉妹の占いや、ワイビーの

話などで、とにかくピンクパレスが「危険」であることが強調されまくります。

 

さらに、女優姉妹の空中ブランコのセリフに、シェイクスピアの『ハムレット』の引用

があります。

ハムレット』のこのシーンは非常に哲学史上重要なんだそうです。

人間はこの世の美、万物の手本である(ハズ)なのに、自分にとって土くれに見える

この人間という存在は一体なんなのだ!という自己の存在そのものに対する問いかけ

になっています。

神が作った人間という存在への問いかけの引用を魔女の世界のショーで入れてくる

のは、本作品のテーマ上深い意味があるように思えます。

 

・ボタンの目

ボタンの目によってホラーだと感じた人も多かったはず。

人間の目はコミュニケーションにとって重要なパーツだということが

分かります。

目がないと(ボタンだと)相手が何を考えているか非常にわかりにくくなるんですね。

ファンタジックな話において、メルヘンなものが逆に恐怖をもたらす理由の一つは、

間違いなくこの目にあるといっていいのではないでしょうか。

ずっと目や表情が変わらなかったり笑顔のまま、サイコなことや猟奇的なこと、

ぎょっとするようなことをされると、恐怖3倍増しになります。

 

・ボタンの魔女

ボタンの魔女は自分の世界の構築をしていますが、無から有をつくることはできない

ようですね。

構築のために、すでにある世界から物を持ってこないといけないのです。

コラライン側の世界の物質を手に入れる手段として、魔女はクモのように、自分の世界

にエモノをおびき寄せる

仮にこの魔女の構築する世界を「ボタンの世界」と呼ぶとすると、ボタンの世界では

眼がボタンであることがルールなので、子供がボタンの世界の住人になれば、目という

我々の世界の物質を手に入れるわけですね。

そして魔女は、子供の目を柱にして徐々に自分の世界を構築しているのです。

 

魔女が猫嫌いなのはなぜなのでしょうか?魔女といえば黒猫を従えているものですが、

ボタンの魔女は自分に操れないものを嫌っています。そして同時に、自分の世界から

出られないので、自由な生き方ができる生き物が疎ましいのです。

 

・スノードーム

スノードームは昔の思い出の象徴なんですね。動物園などの観光名所

の名前が入っています。

本物の両親がスノードームに閉じ込められるのは、過去の記憶の中に 本物は

閉じ込めてしまうという魔女のメッセージになっていますね。

 

テーマ

メッセージ性のある様々なシーンがありました。

これらのシーンから、本作品のテーマとして挙げることとすれば、

(作家自身の背景がのっかっていればまた別ですが、純粋に話だけ見れば、)

やはり「」ですよね。

本作品では、まず、

「目をボタンに換えて、別世界で暮らすこと」

「自分自身の世界で暮らすこと」

の対比について考えることになります。

ここでの

「目」=「自分自身で物事を見るためのもの」⇒ 主体的姿勢の象徴

といえます。

 

ここから、

「人間は退屈から逃れたい存在であり、そのためなら主体性を捨てることも

いとわない。しかし、人間にとって大事なことは、世界の創造主への盲目的な

服従や、自分のいる世界からの逃避ではなく、自分が自分の世界を選択する

という主体性なのである。」

というメッセージがあるのではないかと思います。

 

さらに、後半、

自分の両親と死んだ子供の目探し、2つを取り戻す、という展開が入ってきます。

ここから、

「自分にとって必要なもの、大切なものは、もうすでに自分の周りに存在している。」

というメッセージが読み取れるといえそうです。

 

・コララインの決断

コララインは、過去に魔女に食べられてしまった他の子供たちと違い、魔女を

倒すことに成功し、本当の両親のもとに帰ることに成功しました。

なぜそれができたのかについて考えてみると、いくつかの理由がありそうです。

 

理由1:魔女の作戦の欠点

魔女は子供にとって理想的な世界を作り、その甘い罠で子供を誘います。

しかし、現実の子供の境遇が、よくないことのほうが多い負の状態にあるとき、

魔女の世界は子供にとって味方のたくさんいる正の状態に近くなります。

コララインが別のパパや別のワイビーに助けられたように、子供は世界を脱出

するための助けを得ることができます。

 

理由2:コララインにとっての目標

コララインは、現実の世界では彷徨っています。だれも自分の話を聞いてくれ

ないという嘆きがあります。一方の魔女の世界には、コララインの理想の

環境が整っています。コララインは、ここから、自分の世界をよくするための

ヒントを見つけています。両親とのガーデニングや隣人との積極的関りは、

ここから導き出された行動といえるでしょう。

 これも魔女の作戦が生んだものなのですが、行動の主体はコララインです。

コララインは、後半、自分の周囲にもともと存在しているものの大切さを実感します。

最後まで周りを良く観察していたために、自分の世界を良くするための解答を得て、

それを活かすことができたのです。

おわりに

少し長くなってしまいました。

いったんこの辺で終わりたいと思います。

 

この作品は本当に素敵な作品です。

骨太の構成に、メッセージ性の強い映像。

今後、他の作品と絡めてまた触れることができればと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最強のふたり

 

こんにちは。

今日は映画の感想を。

タイトルは『最強のふたり』(2011年、フランス)

 

  ※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。

 

最強のふたり (字幕版)

最強のふたり (字幕版)

 

夜のドライブ、かっこいいオープニング ―――

ただ爆走しているからじゃない。2人の人間がいて、なにかがあったあとの

ドライブ。静かだが充実した空気が流れている。

そんな感じで始まったこの映画。

 

スッキリとしていて、だれでも楽しめる、いい映画。

決して難解ではなく、多くのことを詰め込んでいるわけではないが、

伝えたいことが明確。テーマも社会的に重要なものである。

 

始まり

ここはフランスなのか?いや、ここがフランスなのだ。

低所得者層が住む団地群。団地が並ぶ街並みは、日本によく似ている。

フランスだとここがスラムなんだなあ。

日本ではスラムっていうより、昔の公団住宅みたいなイメージだ。

治安はともかくとして。

 

サッカーのフランス代表とか見てもわかるが、フランスは昔からアフリカ系移民の

人やその子孫の人がたくさんいるんだよね。

 

ここはそんなひねりもなくフランスの下層社会的なイメージなんだろう。

スラムというか、先進国的な息苦しさだ。

失業手当目的で応募とか。介護職に応募してくる人たちの空虚な志望動機とか。

マクロンと市民の間にある溝も、こんな感じなのかなとか想像した。

 

フィリップの家はとても豪勢なお屋敷だが、風呂が分かりやすい対比に。

ドリスの家の風呂は超狭くて、しかもプライベート空間じゃない。

だから風呂付個室とかありえないって感じなんだね。

筆者は、

フランス人はどうしてあんなに広い空間にあんな小さい風呂桶を置いてしまうんだ?

とか思ったりもしたが…

日本だと、豪華な風呂というのは、材質が良くて、桶の中で足の延ばせる風呂だと

思うのだが、日本とは風呂に対する価値観や習慣が違うんだろう。

 

物語の主軸はドリスとフィリップの出会い。

そして形成される日常。

徐々にうまくいく2人。

フィリップにとってドリスがかけがえのない存在に。

やってくる別れ。

再会と、深い絆。

 

構成はそんなに珍しくない山と谷。

できればドリスが去らなければならない理由をもう少し掘り下げてもよかった

気がするが。(住み込みでなければ、フィリップの所で働くのは無理ということ

なんだろうけど、ドリスが戻って実家の環境が改善した感じが弱い)

これ、撮る人によってはもっと強弱をつけたりしそうである。

例えば2人がケンカをするとか、ドリスの家庭環境がフィリップの家に悪影響して

しまうとか。

実話に基づくので、あまり大げさにしたくなかったのかもしれない。

ここら辺はフランス的な美意識なのかなんなのか、よくわからないが…

フィリップが現代に文通をしているのも印象的で、彼はやっぱり自分に自信がもて

ないでいて、背中を押してくれる人間が必要であることを示している。

 

まあ全部話すと長くなってしまうので、以下はテーマの部分にフォーカスしてみたい。

 

テーマ

この映画で重要なテーマとは何か?

「会話」がその一つなのは間違いない。

 

人と人との重要な関係性は、十分なコミュニケーションによって生まれる。

コミュニケーションにリズムを与えるのが、日常の「会話」である。

 

2人の会話のリズムだけでこの映画は飽きさせない。

抜群にユーモアや皮肉が効いていて、普通の生活のシーンなのに

メチャクチャ楽しく感じる。

障害者と介護者との会話だから、なおさらこの明るさが重要になっている。

ただただ暗く平凡な日常になるという、ありがちな状態からの脱却だ。

本来暗いものが明るくなっているというのは、タイトル通り、まさに最強の状態。

 

だから、ドリスが去った後のフィリップの日常はどうなったか?

身の回りの介助をするお世話係は、ひとつも楽しませてくれない。

ドリスが来る前に逆戻りだ。嫌だったあの毎日が戻ってきた。

 

なぜ、障害というワードがコミュニケーションを暗くするのか?

それは、会話の相手が「障害者の方」になってしまうからだろう。

ドリスが会話している相手はフィリップなのに、他の介護者にとっては

そうじゃない。

同情心が、目を曇らせる。

障害者である以前の、個人としてのその人が見えなくなる。

 

印象的だったのが、フィリップの「ドリスは横暴だ。それがいい」みたいなセリフ。

車もこれを暗示していて、障害者用の車でしか外出しなかったフィリップを荒々しい

スポーツカーにのせるドリスは、人間的に何が楽しいのかということを何よりも優先してくれる。

身の回りの人全員から常に気を使われる状態というのが、フィリップにとってある種の

非人間的扱いなのだということが伝わってくる。

 

 

まとめ

ドリスは社会の下層にいた。だから上流階級のフィリップが

障害者でも同情しない。それが逆に2人の関係性をつくるきっかけになった。

ただ、2人の関係が深化したのは、会話である。

それがリズムになった。多くのことを前進させた。

そして会話で大事なのはユーモア。明るさこそが最強の源。

そして楽しい会話をすることは、互いを人間として認めあっている証なのである。

 

深刻にならず、気軽に見れてとてもいい気分になる映画だった。

 

追記

ドリスのおすすめがBoogie Wonderland (Earth, Wind & Fire)

なのはセンスがいい。

ハッピーフィート』でノリノリで歌ってたのを思い出すね。

 

ハッピー フィート (字幕版)

ハッピー フィート (字幕版)

 

 

 

おしまい

ありがとうございました。

 

 

ブログ開設しました

ブログ開設

こんにちは。

いえらて(ID: IElatte)と申します。

新卒4年目の社会人です。

 

もともと趣味で映画やアニメを見て、つらつらと考察したりメモをとったり

していたのですが、もっと形のあるもので自分の考えを整理したいと思い、

ノリと勢いだけでブログ開設に至りました。

 

ここでは主に、最近見たり読んだりしたコンテンツ(映画、アニメ、小説など)

についての感想や、日々感じたことを書く予定です。

 

もし目に留まったことがあれば、少しだけ覗いてやってください。