自分にとってのスター・ウォーズ
こんにちは。
年末年始の忙しさから全然記事が書けず、『この世界の片隅に』の記事も進まずで
情けない話だが、先に書いて一旦着地しておかなければならないことができてしまった。
それは、『スター・ウォーズ』についてである。
はじめに
『スター・ウォーズ』は、言わずと知れたビッグコンテンツで、同時に世界中に数え切れないほどのコアなファンを持つカルトコンテンツでもある。
生みの親ジョージ・ルーカスは『スター・ウォーズ』を作る過程で様々な映像クリエイト分野におけるブレイクスルーを引き起こし、そこで生まれた撮影技術や映像技術は間違いなく現代映画の礎となっている。
『スター・ウォーズ』は現在「本編」となるシリーズが9作品ある。
9作品目である「エピソード9:スカイウォーカーの夜明け」が2019年12月20日に日本でも公開され、大変話題となった。
もっとも、ジョージ・ルーカスが関わったのは、1977年~1983年に公開された
「スター・ウォーズ」
「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」
のいわゆる旧三部作と、
1999年~2005年に公開された
のいわゆる新三部作の計6本である。
2015年~2019年に公開された
「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」
「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」
のいわゆる続三部作はルーカスフィルムがディズニーに買収され、生みの親が制作に関わらなくなったあとに制作されたものだ。
巷ではディズニーが作った新スターウォーズは、壮大な二次創作であり、本家と同列には語れないといった声も聞こえるが、こういった議論は終わりがないものだと自分としては考えている。
それは、このシリーズがかなり長い年月にわたって公開されているものであるがゆえに、最初に映画館で見た作品も違えば、年齢も様々、時代背景も様々、同時に公開していた映画や他の映像作品も様々と、各作品を1つのものとして評価するには、評価する視聴者の側が多様すぎるからだ。その中である種の結論のようなものが出るはずもなく、議論が永久に繰り返されるだけである。
ただ、熱く議論を繰り返すことは、作品の楽しみ方としては誠に正当な姿だと感じるし、これからも続いていくことを願っている。
前置きが長くなった。
これ以上の詳しい話やスピンオフなどについては、ウィキペディアなどの資料で自分で調べてくれればと思う。
私は私にとっての『スター・ウォーズ』とはなんなのかをここで整理しておきたい。
スターウォーズ第二世代
小学生の時分、映画館に見に行く映画といえば『ドラえもん』だった。そんな私が人生で初めてスクリーンで見た実写映画が『スターウォーズ エピソード1』である。
私は言うなれば「スターウォーズ第二世代」であり、「新三部作世代」である。
このことがスターウォーズの歴史においてどのような意味を持つのか?それがこの話のテーマである。
古典的スターウォーズファンにとって「新三部作」の評価は複雑である。旧三部作との違いが多くコミカルな描写が少なく悲劇的。さらに、ミディクロリアンなどの後付的な設定や、評判の良くないキャラ(ジャージャービンクスなど)など、マイナス評価も結構耳にした。
しかし、最初に見た映画が「エピソード1」の私は、まるで違う世界を見ている。
それは、私にとってのスターウォーズの基準は「新三部作」であるということだ。
思春期に見たものの影響は、我々が考えているよりはるかに大きい。子供のころの思い出ではなく、大人になっても人格の一部として我々の人生に影響を与えているといってよい。
基準としての「新三部作」
旧三部作は大筋として勧善懲悪ものとして完成されているが、新三部作は主人公アナキンが純朴な少年から悪の道に堕ちるまでを描く悲劇的なストーリーだ。しかし、見ているほうの少年の我々は、主人公アナキンの味方をする。主人公なのだから当然である。
いずれダースヴェイダーになるからといって初めから「コイツ悪い奴」とか思うわけないのだ。
少年はアナキンの心情に寄り添い、アナキンの敵を自分の敵と認識する。
少年の目から見ると、アナキンには敵が2つある。
1つはもちろんシスの暗黒卿や分離主義者の勢力。しかし、パルパティーンなどは表面上はアナキンの味方をしてくるので、敵意は向きにくい。主にドゥークー伯爵やグリーバス将軍などが敵と認識される。
2つ目の敵はジェダイ評議会だ。アナキンも評議会もジェダイだが、2つは本質的にかみ合わない。それはジェダイという存在の特殊性にある。新三部作における評議会は、保守的で、現在の秩序とジェダイの教義を守ることを第一に考えている。一個人の事情よりも銀河のバランスが重要という言い分があるわけだが、味方によっては冷たい姿勢なのだ。
そもそも物語における宗教組織はそれほど良い描かれ方はしない。宗教は一種の分断を生み、信じる者と信じない者に人を分けてしまう。
スターウォーズにおける宗教組織はまぎれもなくジェダイ評議会であり、彼らも腐敗した共和国の一部であることに変わりない。彼らは苦しむ民の星で政治体制を変えたりしないし、議員の不正を暴くことに力を注いだりしない。ジェダイが正義の味方であるというのは旧三部作の理屈であり、新三部作からみればもともと非常に偽善的な存在なのだ。
そもそも、「ジェダイの騎士」とは人間的な感情を極限まで抑え、自然の中に存在するフォースと一体化することで大きな力を使う戦士であり、こうなるには生まれ持った才能に加え、幼少時からの洗脳的ともいえる多くの訓練が必要なのだ。彼らは正義や悪という考え方で動かない。銀河のバランスへの「殉教」の姿なのである。殉教にあこがれる人は少なく、人間的な感情を排する戦士に共感することもなかなか難しい。
このような理由から、ヨーダやメイス・ウィンドウなどの戦う姿にかっこよさを感じつつも、ジェダイの騎士という存在は自分の中のヒーローとはなり難いのである。
また、共和国という存在にも新三部作基準派としては懐疑的だ。銀河共和国は非常に長い歴史を持ち、その間共和制で国を治めてきた。規模が銀河全体であるためわかりにくいが、21世紀の混沌の中にいる我々にとって、民主主義がこの期間にこの規模で健全に保持されるとは考えにくい。
「旧三部作で帝国を打倒した後、また元老院をつくって機能しない民主主義を復活させても仕方がないだろう。腐敗が始まるだけだ。なにも解決してないじゃないか。」
というのが新三部作基準で見た人間のささやかな抵抗である。
もちろん、公開した時系列と、作品の時系列が逆であるがゆえに、作品への時代性の反映までも逆転している印象はある。旧三部作には、第二次世界大戦を経験し核兵器への危機感を強めた20世紀の影響が色濃く出ている。一方、新三部作には、20世紀末から21世紀初頭の、バブルがはじけたことによる経済の停滞や、民主主義の堕落とそれに代わるものを見出せない閉塞感が出ている。
21世紀に生きる少年の目から見れば、評議会は頭の固い大人であることこの上なく、共和国は力を失った民主主義の成れの果て。頭の固い大人は、思春期の少年にとって非常に邪魔な存在の一つである。民主主義は少年たちが参加すらできない押し付け。何一つ新たなる希望じゃない。要は「ジェダイ」も「共和国」も、新三部作基準の人間にしてみれば、滅ぶべくして滅ぶ存在なのである。
旧三部作基準の大人たちがいくら新三部作にケチをつけようと、少年時代に刻み付けられたものは簡単に揺るがない。エピソード1も2も少年の目から見れば十分面白いし、ジャージャーも面白い。
時代の支持した野望的行動
新三部作の表向きの話は先ほど書いたアナキンの話だが、同時に裏側の話がある。
それはパルパティーンの野望の話だ。 時代背景を考えても、民主主義をぼーっと信じる人より野望的な人が勝つという展開が望まれたのかもしれない。パルパティーンの行動は新三部作において最も注目すべきことの一つといえる、野望的行動の連続だ。
パルパティーンは若いころからシスの修業をしていて、シスマスターになったが、結局かなりの高齢になるまで目が出なかった。なんとか元老院の一地方議員(ナブー星系選出)にまでなったが、その先どうするか。
まず、課税によるもめごとで通称連合をたきつけ、自分の故郷ナブーの侵略させる。そして、平時のリーダーではなく戦時のリーダー(強いリーダーシップのある人)をもとめる世論に変え、そこで最高議長に立候補して、ナブーの同情票を集めて当選。銀河共和国の最高権力者となる。そして分離主義者をたきつけてクローン戦争を起こさせ、対抗手段として共和国軍を再創設させる(自分から言うのではなく、ジャージャーに動議を提出させる)。ジェダイを最前線に立たせて数を減らしつつ、共和国軍を強化。さらに、元老院で民主的に独裁権を手に入れ、皇帝の地位に就く。アナキンを誘惑し後釜として確保しつつ、デス・スターなどを用意していたドゥークーを用済みに。すぐにクローンに仕込んでおいたオーダー66を発動させてジェダイを抹殺。同時に独立星系連合の分離主義派を用済みで抹殺し口封じ。共和国を帝国に再編成し、強くなった共和国軍は帝国軍に。デス・スターを完成させ、銀河の支配者となる。
グウのでも出ない完ぺきな計画だった。チャーチルように戦時の指導者として当選し、ヒトラーのように民主的に独裁者となったのだ。
ほめられない野望だが、パルパティーンがこのためにあらゆる人間関係を捨てて努力したことはうかがえる。すでに腐った国体を維持しているだけのジェダイが負けても仕方がないという感じがしてしまうのは無理からぬことではなかろうか。
1つの可能性を示したエピソード8
続三部作のエピソード7~9は、全体の評として、前6作ほど心に響くものではなかった。それは私がすでに少年ではなく大人になってしまったことも多分に影響しているので、制作側だけに責任を求めるつもりはない。ただ、エピソード7と9は壮大な二次創作という批判を跳ね返すほどのパワーはないし、エピソード8も新しいことに挑戦する姿勢はあったが、過去作への逆張りという印象をぬぐえなかった。
ただ、エピソード8は、今までのスターウォーズを振り返り、これからのスターウォーズに向かって行く上で、なんとか一つの可能性を示せていたと思うので、最後にそれに触れて締めとしたい。
「最後のジェダイ」を見て思うのは、スターウォーズは元からサーガだったわけでもスカイウォーカー家の物語だったわけでもないのでは、ということだ。
一番最初の話(現在のEP4)は、片田舎の少年が、お姫様を救い出し、ワルとともに敵を蹴散らして銀河のヒーローになる話だった。(だから最後に表彰のシーンとかついているのである。)
「最後のジェダイ」では、ヒーローになった少年ルークの物語が幕を閉じた。片田舎で見つめていた夕日と同じ夕日を最後に見つめながら。ルークはルーカスの写し鏡であり、深読みすれば、ルーカス監督の物語が幕を閉じたともとれる。
「最後のジェダイ」は私小説的とも評される。ひねくれたルークはルーカスで、まったく行動に一貫性がないレジスタンスは今の制作現場そのものではないかと。
個人の印象としては、ちょっと度が過ぎるほど観念的で、脚本にも難はあるが、スター・ウォーズという物語に対し、最も真剣でフラットな見方をしている作品だ。サーガではない。伝統を守り伝えるのではなく、古い書物は燃やしてしまう。一から見直すという宣言ではなかろうか。そして、今までのスター・ウォーズの中で築かれてきた様々な約束事(=正しさ)をことごとく疑っている。これは、ジェダイと共和国を疑った新三部作基準派の想いに似ている。
だから「最後のジェダイ」は、今までの流れに納得がいっていなかった人にとっては、一つのヒントになるだろう。新三部作基準派である私も、少し肯定されたような気分になることができた。
逆に、古き良きスターウォーズの正義を求めている人にとっては悲劇だ。そんな話は1ミリもする気がない。ルークの「素晴らしい。すべて間違っている」というセリフや、ベネチオ・デル=トロが演じる賊の「世の中からくりだらけだ」という言葉が、監督の作家性そのものである。
観客が登場人物の中で正しい誰かを見つけてライドするのが非常に難しい作品だが、希望はある。
それは最後のシーンだ。これは素晴らしい終わり方だった。
あの少年がさりげなくとった行動。少年は、フォースを自然に使って掃除する箒をとった。
少年は、ルークと同じ、そしてレイと同じなのだ。
最も最初のスター・ウォーズとは何だったか?上述のように、それは何者でもない人の中に本当の「新たなる希望」があるのではないか?というメッセージだ。「最後のジェダイ」がそれを思い出させてくれる作品であることは間違いないと思う。
次のシリーズの中心人物は「最後のジェダイ」のライアン監督であるという。
これが我々にとって朗報であったのか。
希望を胸に、次のシリーズを待つこととする。
おしまい