コララインとボタンの魔女

こんにちは。

今日も映画の感想になります。

タイトルは『コララインとボタンの魔女』(2009年、アメリカ)

 

  ※この記事はネタバレを含んでいます。コンテンツの内容をご存じでない方は

   十分ご留意の上でご覧下さい。 

  ※本記事に身体障害への差別的な意図は一切ありません。

 作品について

この作品はニール・ゲイマンという児童文学・ファンタジー文学作家の

同名小説の映画化ですね。

作っているのはイカという3Dストップモーション・アニメで有名なスタジオです。

本作品も3Dストップモーション・アニメであり、ピクサー作品のような

切れ目のないデジタルな3DCGとは少し異なり、コマ撮り(静止している

物体を少しずつ動かして、動いているように見せる特撮技法)でつくった

3Dアニメです。

 

コマ撮りだと、なめらかな動きではなくカクカクした動きを表現できます。

人形劇のアニメ版のような感じで、独特の味や世界観が出ますね。

※ピンとこない人は、子供のころに見た『みんなのうた』や、『クレヨンしんちゃん』の映画

のOPを思い出してください。

 

原作小説がヒューゴー賞を受賞しているということもあり、非常にガッシリと

話全体が構築された映画になっていたと思います。

適当につくった量産型の3Dアニメでは決してありません。

 

アニメの中でも、ストップモーション・アニメはまだまだマイナーな存在ですね。

でも徐々に認知はされているように感じます。

最近だと『KUBO』が話題になりました。

 

あらすじなどはAmazonでも見てもらえばよいので、特に書きません。

まずは作品のジャンルに少し触れたいと思います。

 

やはり面白いSF・ファンタジー

本作品に限らず、こういうSFやファンタジー系の作品は面白いものが非常に多いです。

アメリカの豊かな文学的土壌では、このジャンルは話題作品が多く、映画化されて

いるものも数え切れません。話題作の映画もだいたいはこのジャンルに原作があると

いっていいでしょう。

(日本だとSFとファンタジーは別物という認識があるかもしれませんが、

アメリカでは同系ジャンルという認識のようです。ヒューゴー賞ネビュラ賞という

有名な文学賞は、SF・ファンタジーを対象にした賞です。)

 

このジャンルのいいところは、

大きい嘘をつくことで、本質的なテーマを扱うことができる

ということです。

フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

では、「アンドロイドがいる世界」という大きな嘘があって、それをベースに

物語を作ることで、

あれ?生身の人間とアンドロイドって何がどう違うんだっけ?

そもそも人間のもっている人間としての自覚ってどこからきているんだ?

…というような本質的でデカいテーマを扱えるわけですね。

 

人間が一生のうちに自分でできる体験というのは非常に少ないので、

現実に起きそうなことだけで話をしようとすると、主観的な話しかできませんし、

面白い体験ができなければそれだけでアウトです。

 

もちろん突き詰めて悟りの境地まで行ければいいのですが、本質的なテーマを扱う

ために、いちいちそこまで時間をかけたら、いつ作品が完成するかわかりません。

人間の複雑な思索が、生きている短い時間の中で成り立つのは、ファンタジー

使っているからなんですよね。

 

2018年に話題となったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の中でも、

人間独自の「虚構(ファンタジー)について語る能力」について語られています。

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

社会に出ると、「いい年して空想にふけるな」とか「現実を見ろ」とか言われますが、

ファンタジーという人間独自の能力をうまく使いこなせないことのほうが、

よほど不幸なのではないかと感じてしまいます。

なぜなら、本質的で重要なテーマについて、人生の中で考える機会を失うからです!

 

語るときりがないですが、皆さんもぜひ、SF・ファンタジーに触れてみてください。

本作品のような、SF・ファンタジーに分類される児童文学については、

今後もじっくりとやれればいいなと思います。

 

作品の感想

印象的だったシーン

・プロローグと人形

手がたくさんの針でできた何者かが、女の子の人形を解体し、

新しい人形に縫い直している。

 

机の中には無数のボタンがペアで入っている。ボタンを目に縫い付けて、

完成した人形がどこかへ解き放たれる…

 

きれいすぎてCGか本物かよくわからないくらいですね。

思わず見とれてしまうシーンです。

 

後半でわかるんですが、これは子供の目を回収完了したので、役目を終えた

人形が返ってきたんですね。そしてコララインの見た目に作り直して、

また送り出すというシーンです。

 

ワイビーがコララインに似ているという理由で人形を渡しますが、魔女が毎回

作り直しているので、当然似ているわけですね。

コララインの手に渡るところまで、魔女のいつもの作戦通りなんんですね。

 

 

・妖精の輪

冒頭で、コララインが、家の周りを探険するシーン。とりあえず自分用の木の枝

ゲット。通称「魔法の棒」ですね。そのあとなんだか不気味な森で水脈探し遊びを

やりながら、古井戸を探すシーンがありますね。

この古井戸、とても伏線ぽいですが、注目なのは周りにキノコが輪状に生えている

ことです。これは「菌輪」という現象らしく、

英語では " fairy ring " (妖精の輪)と呼ばれるそうです。

妖精の輪には民話的な伝承があるらしく、別世界への入り口だとか、妖精の踊った

跡だとか言われています。

妖精で連想されるのが、チェンジリング(取り替え子)というヤツですね。

ダンジョン飯』に出てきたアレです。

 チェンジリングというキノコの輪に入ると、似ているけどちょっと違うものに

なってしまうという話が出てきました。

日本だと神隠しが似ています。

ダンジョン飯 8巻 (ハルタコミックス)

ダンジョン飯 8巻 (ハルタコミックス)

 

 冒頭からかなり不気味な雰囲気が漂う本作品ですが、この妖精の輪で、

この話は、取り替え子や神隠しのような話だよという暗示があるのかもしれません。

 

・主人公とピンクパレス周辺

主人子のコララインは、勝ち気で好奇心の強い女の子ですが、これは何となく

10台の女の子を主人公にするときの型の一つという印象です。

両親がかまってくれないというのも、冒険のきっかけとしてはテンプレですね。

それにしてもパパの顔の死に方がひどい…。

 

コラライン一家が引っ越してきたピンクパレス・アパートについてはどうでしょうか。

コララインとワイビーが会うシーンで、ワイビーが

「ピンクパレスは子持ちに貸さない。理由は言えない」と言っています。

この時点で、ワイビーは、この地域で昔から神隠しが起こったのを知っていますよね。

それもおそらくピンクパレスの一家の子供が毎回いなくなっていたのです…。

 

家の周りが霧に覆われていて、狭い範囲しか見えないというのは重要です。

これによって、コララインが行く当てを探し求めるという動きが生まれます。

日々の退屈を紛らわすものが欲しいコララインですが、家の中は古くて何もないし、

隣人は個性的で変な人ばかりです。

こうなると、「開かずの扉がメチャ気になる」という展開ができます。

 

・隣人

ジョーンズ家の隣人は、ワイビー、ボビンスキー、

ミリアムとエイプリルの女優姉妹の3者です。

コララインが魔女の世界で理想的な隣人増を見たり、家の周りをまわって目を探す

ので、前半はその対比で現実の世界を見せる構図になっています。

宝さがし物はこの伏線を作っておくのがかなり大事なんですね。

自分が今まで通ってきたところにヒントがあるという展開が、物語の振り返りを

生むので、見ているほうも面白いんですね。

 

また、この時に、ボビンスキーのネズミの忠告や、女優姉妹の占いや、ワイビーの

話などで、とにかくピンクパレスが「危険」であることが強調されまくります。

 

さらに、女優姉妹の空中ブランコのセリフに、シェイクスピアの『ハムレット』の引用

があります。

ハムレット』のこのシーンは非常に哲学史上重要なんだそうです。

人間はこの世の美、万物の手本である(ハズ)なのに、自分にとって土くれに見える

この人間という存在は一体なんなのだ!という自己の存在そのものに対する問いかけ

になっています。

神が作った人間という存在への問いかけの引用を魔女の世界のショーで入れてくる

のは、本作品のテーマ上深い意味があるように思えます。

 

・ボタンの目

ボタンの目によってホラーだと感じた人も多かったはず。

人間の目はコミュニケーションにとって重要なパーツだということが

分かります。

目がないと(ボタンだと)相手が何を考えているか非常にわかりにくくなるんですね。

ファンタジックな話において、メルヘンなものが逆に恐怖をもたらす理由の一つは、

間違いなくこの目にあるといっていいのではないでしょうか。

ずっと目や表情が変わらなかったり笑顔のまま、サイコなことや猟奇的なこと、

ぎょっとするようなことをされると、恐怖3倍増しになります。

 

・ボタンの魔女

ボタンの魔女は自分の世界の構築をしていますが、無から有をつくることはできない

ようですね。

構築のために、すでにある世界から物を持ってこないといけないのです。

コラライン側の世界の物質を手に入れる手段として、魔女はクモのように、自分の世界

にエモノをおびき寄せる

仮にこの魔女の構築する世界を「ボタンの世界」と呼ぶとすると、ボタンの世界では

眼がボタンであることがルールなので、子供がボタンの世界の住人になれば、目という

我々の世界の物質を手に入れるわけですね。

そして魔女は、子供の目を柱にして徐々に自分の世界を構築しているのです。

 

魔女が猫嫌いなのはなぜなのでしょうか?魔女といえば黒猫を従えているものですが、

ボタンの魔女は自分に操れないものを嫌っています。そして同時に、自分の世界から

出られないので、自由な生き方ができる生き物が疎ましいのです。

 

・スノードーム

スノードームは昔の思い出の象徴なんですね。動物園などの観光名所

の名前が入っています。

本物の両親がスノードームに閉じ込められるのは、過去の記憶の中に 本物は

閉じ込めてしまうという魔女のメッセージになっていますね。

 

テーマ

メッセージ性のある様々なシーンがありました。

これらのシーンから、本作品のテーマとして挙げることとすれば、

(作家自身の背景がのっかっていればまた別ですが、純粋に話だけ見れば、)

やはり「」ですよね。

本作品では、まず、

「目をボタンに換えて、別世界で暮らすこと」

「自分自身の世界で暮らすこと」

の対比について考えることになります。

ここでの

「目」=「自分自身で物事を見るためのもの」⇒ 主体的姿勢の象徴

といえます。

 

ここから、

「人間は退屈から逃れたい存在であり、そのためなら主体性を捨てることも

いとわない。しかし、人間にとって大事なことは、世界の創造主への盲目的な

服従や、自分のいる世界からの逃避ではなく、自分が自分の世界を選択する

という主体性なのである。」

というメッセージがあるのではないかと思います。

 

さらに、後半、

自分の両親と死んだ子供の目探し、2つを取り戻す、という展開が入ってきます。

ここから、

「自分にとって必要なもの、大切なものは、もうすでに自分の周りに存在している。」

というメッセージが読み取れるといえそうです。

 

・コララインの決断

コララインは、過去に魔女に食べられてしまった他の子供たちと違い、魔女を

倒すことに成功し、本当の両親のもとに帰ることに成功しました。

なぜそれができたのかについて考えてみると、いくつかの理由がありそうです。

 

理由1:魔女の作戦の欠点

魔女は子供にとって理想的な世界を作り、その甘い罠で子供を誘います。

しかし、現実の子供の境遇が、よくないことのほうが多い負の状態にあるとき、

魔女の世界は子供にとって味方のたくさんいる正の状態に近くなります。

コララインが別のパパや別のワイビーに助けられたように、子供は世界を脱出

するための助けを得ることができます。

 

理由2:コララインにとっての目標

コララインは、現実の世界では彷徨っています。だれも自分の話を聞いてくれ

ないという嘆きがあります。一方の魔女の世界には、コララインの理想の

環境が整っています。コララインは、ここから、自分の世界をよくするための

ヒントを見つけています。両親とのガーデニングや隣人との積極的関りは、

ここから導き出された行動といえるでしょう。

 これも魔女の作戦が生んだものなのですが、行動の主体はコララインです。

コララインは、後半、自分の周囲にもともと存在しているものの大切さを実感します。

最後まで周りを良く観察していたために、自分の世界を良くするための解答を得て、

それを活かすことができたのです。

おわりに

少し長くなってしまいました。

いったんこの辺で終わりたいと思います。

 

この作品は本当に素敵な作品です。

骨太の構成に、メッセージ性の強い映像。

今後、他の作品と絡めてまた触れることができればと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。